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閑話(3)
白く閃く陽光が、庭全体に躍る。
目を射貫くほどの眩しさ。晴れ渡った青空と暑さすら感じるこの気候は、まるで夏を彷彿とさせる。
「っし! こんなもんだな」
そんな中、作業を終えた一人の中年男性が、額にきらりと光る汗を拭った。にかっと笑った口元からは、白い犬歯が覗いている。
彼はヒトで、フレイム家が懇意にしている花屋の主人兼庭師の棟梁だ。
この日、プランターを屋敷まで配達してくれた彼は、「ついでに」と、厚意で壌土まで入れてくれた。
「お世話になりました。どうぞこちらで休憩なさってください」
彼の様子を確認したディアナが、少し離れたところから声をかける。手には、冷たい飲み物とお菓子の乗ったトレー。
幼妻のこの意図を汲んだ彼は、目を見開き恐縮すると、もともと大きな声をさらに振り立ててこう言った。
「あっ、いやっ、どうかお構いなく! あっしはもうお暇させていただきますんでっ!」
四角い顔に並行した糸目。角刈りにした黒い頭髪には手拭いが巻かれており、首にも同じものが引っ掛けられている。
来年還暦を迎えるというのに、その肉体からは老いなどいっさい感じられない。褐色の筋肉質な肌は、てらてらと鈍く光っていた。
まさに、この道を極めた職人の漢だ。
「まあそうおっしゃらずに。一杯だけでも」
天使のように可憐な笑顔をふわりと投げかける。これを拒める強者など、彼女の周りにはよもや存在しないだろう。
嵌めていた軍手を外し、ポケットに突っ込むと、彼はディアナのもとへと向かった。申し訳ないと思いつつも、彼女の親切心に甘えることに。
庭の一角に設けられた、真っ白なアルミ製のガーデンテーブルセット。つる性の植物をモチーフにした丸みを帯びたこのデザインは、彼女のお気に入りだ。
「アイスコーヒーです。ミルクやお砂糖はいかがなさいますか?」
「いえっ、このままで結構です! いただきます!」
グラスとともに差し出されたおしぼりで手の汚れを拭き取ると、棟梁は、半分ほどの量を一気に飲み干した。枯渇した体内の隅々まで、水分が染み渡っていくのを感じる。
「よろしかったら、こちらも召し上がってくださいね」
そう言って、ディアナが指し示したのは、小さなバスケット。その中には、昨日マキシムから貰った焼き菓子の一部が、可愛らしく詰め込まれていた。
今朝、開封してみて驚いた。とてもじゃないが、彼女一人では到底食べきることのできないボリュームだったのだ。
この件に関しては、夫はまるきり戦力外。よって、棟梁を巻き込むことにした。
けれども、ディアナに勧められ、躊躇いがちに彼が手にしたのは、小さなフィナンシェ一つだけ。
遠慮しているだけなのか、はたまた彼も甘いものが苦手なのかは不明だが、どちらにせよ、彼女の作戦は失敗してしまったらしい。
当てがはずれたディアナは、ほんの少しだけ落ち込んだ。
が、それもつかの間。彼女には、腹案がある。
棟梁が帰る際に、それを実行しよう。静かにそう決意すると、自身も白く濁ったコーヒーを一口含んだ。
「だいぶ秋めいてきましたねぇ」
庭の草木を眺めながら、棟梁がディアナに語りかける。
紅や黄に色づいた落葉樹。彼女が大事に世話をしている花壇には、ピンクや白の秋桜が心地好さそうに揺らいでいた。
「はい。とても綺麗に手入れしてくださっているので、毎日庭に出るのが楽しいです」
微笑みとともに彼に返す。
彼女のこの言葉に胸をくすぐられた彼は、「ありがとうございます」と呟くと、焦げたその肌の上からでもわかるほどに、頬や耳を赤く染めた。
爽やかな秋風が、青い芝生を駆け抜ける。
日々の喧騒から隔離され、ゆるやかに流れる時の中を、二人はまったりと過ごした。
「また落葉したら、改めて剪定に参りまさぁ」
「よろしくお願いします」
ディアナと会うのはこれで五度目だが、フレイム家とは、もうずいぶん長い付き合いだという彼。専属の庭師として屋敷に出入りするようになってから、かれこれ二十年以上が経過したのだそう。
ゆえに、自然とこんな話題になった。
「ジーク様も、もう二十八になられたんですねぇ。……道理であっしも年を取るはずだ」
「幼い頃から知っているので、まるで父親のような存在だと言っていましたよ」
「あははっ! そいつぁ光栄だ!」
天を向き、豪快に笑う。今にもはち切れそうな喜色だ。
「裏庭に、大きな無花果の木があるでしょう? よくその木に登っておられましたよ」
「……え? 主人が、ですか?」
これには、ディアナも思わず聞き返してしまった。まん丸い目がいっそう丸くなる。
確かに、フレイム邸の裏庭には、それはそれは立派な無花果の木が、堂々と太い枝を張り巡らせている。
樹高は約四、五メートル。他の木々に比べればそれほど高くはないが、小さな子供がよじ登るには、結構な高度だ。
彼なら、まあ、難なく登れたのだろう。それに関して疑う余地などありはしないが、なんというか……意外である。
「ジーク様は、実に伸び伸びと育てられたと思います。それがご両親の教育方針だったようで」
思考が迷走しているディアナの心中を、なんとなく察した棟梁が笑って言う。
それから、目を伏せた彼は、懐かしむように愛おしむように、言葉を続けた。
「好奇心も旺盛でした。よく見聞きして、よく遊んで、よく笑って……」
何に対しても興味を示していたのだというジーク少年。
棟梁たちが作業をしているところを食い入るように見つめては、その両の眼を燦然と輝かせていたらしい。
「旦那様も奥様も、一人息子であるジーク様のことを、本当に大切に育てられていました。……けっして甘やかすことなく、深い愛情をもって」
威容を誇る父親と、明るく穏やかな母親。
なるべく寂しい思いをさせないようにと、忙しい合間を縫っては、両親ともに息子との時間を作っていたらしい。
彼の博識さも、器用さも、優しさも。すべて、両親から受け継がれているものなのだ。
「……これからも、受け継がれていくんでしょうな」
「え?」
不意に、棟梁がこんなことを口にした。きょとんとしたディアナの頭上に疑問符が飛び出す。
うっすらと垣間見えた彼の黒い瞳は、溢れんばかりの慈愛に満ちていた。
「お二人の間に生まれてくるお子さんのこと……あっしは、爺のような気持ちでお待ち申しておりまさぁ」
柔和な口調で、まだ見ぬ未来に想いを馳せる。
この道しか知らぬ自分には、若い彼らに与えられるものなど何もない。
けれど、この家に二十年以上仕え、まがりなりにも、ともに時間を過ごしてきたという自負がある。
こんな自分を慕ってくれるというのなら、できることは何だってやる。
「……はい」
目の前に咲く、この笑顔のためなら、
何だって。
結局、二時間弱ほど話し込んでしまった二人。
あんなに高かった気温も、日が傾いた今ではすっかり下がってしまった。
「これ、よろしかったら」
帰宅準備が整った棟梁に、ディアナがあるものを差し出す。
ギフト用に可愛らしくラッピングされた紙袋。その中には、例の焼き菓子がびっしりと詰め込まれていた。
「えっ……よ、よろしいんですかい?」
「はい。娘さんとご一緒に」
一人で店番をしているという彼の娘のために用意された土産。
以前、彼女と店で話をしたときに、焼き菓子ではなかったが、甘いものの話題で盛り上がったことをディアナは覚えていたのだ。
フラワーアーティストの彼女には、常々世話になってばかり。先日も、母に供える花束を快く引き受けてくれたところだ。
自身も幼い時分に母親を事故で亡くしているので、ディアナの気持ちは痛いくらいにわかるのだと、彼女は言った。
そう。棟梁は、男手一つで立派に娘を育て上げた、シングルファーザーなのだ。
「あいつ、甘いモンに目がないんで喜びます。ありがとうございます」
「お裾分けで大変申し訳ないのですが……」
眉を下げるディアナに、「とんでもない!」と、音が聞こえそうなくらい首を横に振る。
その顔は、まさしく父のそれだった。
「お世話になりました。どうぞ、お気をつけて」
「はい! では、失礼いたしますっ!」
いつも通りキレのある声でディアナに挨拶すると、棟梁はさっと踵を返して帰路についた。
彼女から貰った娘へのプレゼントを、片手でぎゅっと胸に抱き締める。
次また同じ季節が巡る頃には、出会えるだろうか。
力強く息づく、青く煌めく若芽に——。
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