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アゲットに弾かれた静粛(2)
ジークが帰宅すると、テーブルの上には、すでに夕食の準備が整っていた。
本日のメインディッシュは、ディアナが初めて挑戦してみたのだというパイ包み。
彼女曰く、それはそれは美味しそうな写真が作り方とともに雑誌で紹介されていたため、迷うことなく今夜のメニューに採用したとのこと。こういった点は、しっかり十代の女子である。
中には、数種類の旬の茸が、トロトロのホワイトソースと一緒に閉じ込められていた。肉はあっさりとしたチキンを使用しており、ハーブと相俟って、なんとも言えない馨香だ。
味は言わずもがな。結婚した当初より、彼女の料理の腕前はプロ級だったが、日を増すごとに、そのレベルは確実に上昇している。
夫のことを、事あるごとに『器用』だと褒め称える妻。だが、夫からすれば、自分よりも妻のほうがはるかに器用だと思うし、多才だと思う。
彼と結婚できたことで、彼女を縛っていた諸々の制約がなくなり、もともと備わっていた能力を、存分に発揮できる機会に恵まれたからだろう。
「どうぞごゆっくりなさっていてください。すぐにお茶をお持ちいたしますので」
食べ終わると、片付けと並行し、妻は特性のブレンドティーを用意する。それを、夕刊を読んでいる夫のもとへと運ぶのである。
夕食後、ダイニングテーブルに着いたまま夕刊を閲読するのが夫の日課。その夫に、季節ごとのお茶を振る舞うのが妻の日課なのだ。
もう半年以上、そんなふうに過ごしている。
春が過ぎ、夏が過ぎ……いよいよ、秋ももう終わりに近づく。
「……今日のは随分さっぱりしているな」
シンクで食器を片づけている妻に向かい、お茶を一口飲んだ夫が言った。
この日のお茶は、普段のものより甘さも香りも控えめだった。温度も、気持ち低めに調整されているようだ。
竜人の味覚と嗅覚は、ヒトのそれらに比べ、かなり優れている。しかし、妻の作るものを毎日口にしている夫は、その肥え方が実に顕著だ。
「あ、お気づきになりましたか?」
カチャンカチャンという陶器同士がぶつかる冷たい音の隙間から、まるで鈴のように愛くるしい声が聞こえてきた。彼女がスポンジでキュッキュと汚れを擦るたび、一つに結んだ金糸の束がふわふわと揺れる。
彼女は、泡まみれとなっているその手を止めることなく、カウンター越しに夫との会話を続けた。
「今日は、効能をリラクゼーション中心にブレンドしてみたんです」
「え?」
「なんだかいつもよりお疲れのようでしたので」
視線を下方に落としたまま、今度は食器をすすぎながら妻。
流水音に耳元を阻まれるからだろう。蛇口をひねっている間、彼女の声は若干大きくなっていた。
意想外の妻の反応。これに対し、思わず夫が聞き返す。
仕事はなるべく家に持ち帰らない。結婚する前より、そう決めていた。もちろん、物理的なことだけではなく、精神的なものも含めての話だ。
肩書きが重くなり、妻と結婚してからも、それを貫いてきた……つもりだった。
だが、今日の案件は、自身が想像していた以上にこたえているらしい。顔にくすんだ色を滲ませてしまうほど。
……いや、違う。
「あっ! もしかして薄過ぎましたか……?」
ただ、自身の心中を、彼女に見透かされてしまっただけのことだ。
「……お前には敵わんな」
「え……?」
淹れ方に何か問題があったのだろうかと狼狽える妻に、夫がぽつりと呟いた。その独言を聞き取れなかった妻は、大きな目をくりくりさせながら不思議そうに首を傾げる。
「いや、大丈夫だ。丁度いい。……ありがとう」
ジークがはっきりそう伝えると、ディアナは目を細め、安心した様子で家事へと戻った。
そんな妻を横目に、また一口味わう。喉元に落とし、一息吐くたび、その息とともに疲れが体外へと抜けていくのを感じた。
和やかな時間。その幸せを、じっくりと噛み締める。彼女の優しさが、存在が、たまらなく心地好い。
洗い物を終え、仕上げにシンク周りをさっと拭き取ると、ディアナはジークのもとへ向かった。それまで一つに結んでいた髪を解き、捲り上げていた袖を下ろす。少しぬるくなってしまったが、自身の分もカップに注ぐと、再度テーブルに着いた。
一日の括り。夫婦の談笑。
これもまた、二人の大事な日課の一つなのだ。
「……そうだ」
「?」
不意に、ジークが口を開いた。
何かを思いついたというわけではなく、もとより心に留めていた事柄を口にするタイミングを見つけた、といった感じだろうか。
広げていた夕刊を畳み、足元のラックへ収納すると、頭上に疑問符を浮かべている妻に対し、彼はこう言った。
「今度の休日、両親の墓を参ろうと思っているのだが」
穏やかな表情で夫が告げると、妻も同じような表情をして見せた。
「お休み取れたのですね。良かった……」
ジークの両親は、二人とも今の時期に他界している。よって、毎年この頃になると、彼は時間を見つけ、一人で墓参していたのだ。
先日、夫からそれを聞いたばかりの妻は、「今年は自分も一緒に!」との強い要望を彼に伝えた。以来、夫がちゃんと休暇を取得できるかどうか、そわそわしながら待機していたのである。
目の前で胸を撫でおろしている妻の姿に、おのずと上がる口角。実は、妻以上に夫のほうがほっとしていたり。
不規則な勤務体系に加え、来月には大きな軍事演習も控えているジーク。もしかすると今年の墓参は無理かもしれない。そう懸念していた。
仕事だから仕方がないと、割り切ろうと思えば割り切れる。けれども、今年はどうしても参りたいという宿望が、彼の中にはあったのだ。
妻と一緒に——。
「あなたが結婚したいと心から思える相手と一緒になりなさい」——生前、母は息子にこう説き続けた。
病に伏せた父も、息子の意思を最大限に尊重し、許嫁を定める等、彼の将来を束縛するようなことは一切しなかった。
侯爵家という名門に生まれながらも、理解ある両親のおかげで彼女と結婚することができたのだと、ジークはどうしても報告したかったのである。
彼女が——ディアナが、自分が心から愛した女性なのだと。
その後、日程を話し合って一段落した夫婦は、この日起こったちょっとした小話など、他愛のない話に花を咲かせた。
もちろん、夫の職務に関する内容は口外無用。ゆえに、人間関係など、情報共有できる範囲での雑談を愉しむのだ。
ちなみに、現在ディアナが密かに気になっている人物は、夫の上官である中将イーサン・オランドだ。
「……あっ!」
「どうした?」
と、急に何かを思い出した様子のディアナが、珍しく大きな声を発した。顔色が、白から蒼へサーッと変わっていく。
そして、まるで糸のようにか細い声を揺らしながら、申し訳なさそうにこんな告白をした。
「お布団、放置しています……」
今日は天気が良かったので、一式まるっと外に干したのだというディアナ。日が陰る前に取り込んだはいいものの、急用を挟んでしまったため、いまだベッドの上に無造作に積んだままとなっているらしい。
「ああ。それなら私がやっておくから、お前はゆっくりしてるといい」
例によって、ごくごく自然なジークの言動。なんの迷いもなく、立ち上がり、爪先を寝室へと向けた。
「あ、いえっ。わたしが——」
こちらも、例によって、ごくごく自然なディアナの言動。なんの躊躇いもなく、立ち上がり、夫を制そうとした。
しかし、
「きゃっ……!」
今日は何かが違っていた。
「危ないっ!」
勢いよく椅子から立ち上がり、大きく一歩を踏み出した妻の足は、ガンッという鈍い音を伴い、テーブルの脚によって払われてしまったのだ。
つんのめった妻の上半身を支えようと、とっさに腕を伸ばした夫が正面に出たのだが。
……この結果を、果たして誰が予想し得ただろうか。
「……」
「……」
目をぱちくりとさせる妻の顔越しに、白い天井が見える。後頭部には、柔らかなラグマットのもこもことした感触と、ほんの少しの鈍痛。
夫は床に沈んだ。……否、沈められた。
「……随分大胆だな」
「ふ、不可抗力ですっ……!!」
夫が妻を支える力よりも、妻が夫を押し倒す勢いのほうが勝ってしまったのだ。
えも言われぬこの状況に、彼女の頭からは謝罪の言葉など、すぽーんと抜け落ちてしまっている。
夫婦仲はいたって良好。当然、肌を重ねて眠る夜もある。が、まだまだ初心な幼妻には、少々刺激と衝撃が強すぎたみたいだ。
しかも、押し倒された本人が、押し倒したほうの腰を両腕でがっちりホールドするという、なんとも滅茶苦茶な始末。
おかげで、ジークの上から退こうにも、ディアナはまったく身動きが取れずにいた。
「……もしかしなくても楽しんでます?」
必死に抵抗する妻とは対照的に、夫は実に涼しい顔をしていた。
さらには、
「いや。僥倖とはこういうことかと」
こんなことを宣った。
「~~っ!!」
その瞬間、自分の中の何かが弾け飛んだディアナは、思わず彼の胸に自身の顔を押し当てた。一割の怒りと九割の羞恥心で、体がプルプルと震える。
今にも飛んで行きそうなほど高鳴る心臓と、触れた水分をすべて蒸発させてしまうくらいに火照った顔。とてもじゃないが、夫と目を合わせられる心理状態ではなかった。
一方の夫は、自身の腕の中で小刻みに揺れる妻に「すまんすまん」と詫びを試みるも、一向に顔を上げてくれる気配のない彼女に眉を下げる。見事に機嫌を損ねてしまったらしい。
けれど、そんな姿でさえ可愛らしいと思ってしまう彼は、相当彼女にご執心のようだ。
「一緒に行くか」
いまだ顔を隠したままのディアナの頭をポンポンと撫でながら、ジークが優しく囁く。
すると、少し間を置いた後。
「……はい」
かすかに身じろぎをした彼女が、小さく答えた。
まるで万華鏡のように鮮麗な日常。
其処彼処に散らばる喜怒哀楽も、何気ないことから生まれる小さな幸せも。
すべてが愛おしいと感じられるのは、きっと、愛する人と一緒だから。
室内を彩る、若い二人の笑い声。
そこには、先代のフレイム侯爵夫妻の望んだ未来が、眩いばかりに広がっていた。
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