Chapter1:キャストライトが紡ぐ夢

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Chapter1:キャストライトが紡ぐ夢

「ディアナ?」  朝食を摂っている最中、不意に名前を呼ばれた。  正面から、心配そうにディアナの顔を覗き込んでいるのは、竜人にして彼女の夫——ジーク・フレイム。  鋭く煌めく金色の双眸に、背中まで伸びた銀色の髪。穏やかだが、張りのある低い声。女性をうっとりとさせる、まさに美丈夫だ。  竜人といえども、姿かたちは、さほどヒトと大差ない。だが、薄い柳色の肌に、発達した上下四本の牙。魚の背びれのように広がった耳。そして、躯体の背面から耳の後ろまでを覆っている、翡翠や青玉(せいぎょく)を彷彿とさせる鱗など、異なる部分も少なからず存在する。 「……? なんでしょうか」  夫の呼びかけに、妻はフォークを置いて首を傾げた。  テーブルの上に並べられているのは、ベーコンエッグとバターロール、それにグリーンサラダ。  食事を開始してから十分近く経つが、彼女の器に盛られた料理は、まったくと言っていいほど減っていない。フォークを置いたといっても、手に持っていただけで、ほとんど動かしてはいなかったのだ。 「最近元気がないな。疲れているんじゃないか?」 「いえ、そんなことは……」  夫の問いにかぶりを振る。しかし、彼の眼差しは、依然として妻のことを憂えたままだった。 「本当に大丈夫です。ジーク様が心配なさるようなことは一つもありません。わたしのことはどうかお気になさらず、お勤めを……」  侯爵の称号を持つジークは、この国の軍人でもある。  二十八歳という若さにもかかわらず、少将という立場に身を置く彼。名実ともに申し分なく、現皇帝からの信頼も多分に厚い。  五年ほど前に父親が病で急逝し、弱冠二十三歳で爵位を継承することとなった。  なぜ、これほどまでに非の打ちどころのない彼が、自分のような年端もいかない小娘を嫁に貰ってくれたのか。  彼ほどの人材ならば、それはそれは理知的で(あで)やかな竜人の女性(それも貴族の)が、候補として挙がっていたとしても全然おかしくはない。彼の歳を考慮すれば、これまでにいくつかその手の話があって然るべきだ。なのにどうして……。  ディアナは、不思議でたまらなかった。  彼と夫婦になって約二ヶ月。ここ最近、いたく自嘲的な思考に脳内を支配される時間が増えた。もともと明るくない表情が、ますます翳りを帯びて見えるのは、そのせいだろう。  器の中身の半分も摂取できていなかったが、時間が差し迫ったため、いったん口を休めて夫の上着を取りに行く。  深い海のように真っ青な、詰襟のロングコート。前面はボタンではなくフックで、金色のラインが襟の縁から正面、裾に沿ってあしらわれている。  襟元には、少将という階級を示す一つ星。右肩から胸にかけては金糸で太く編まれた飾緒(しょくちょ)が垂らされており、左腕の上部には、国章が刺繍されている。見ただけで背筋が伸びそうなほどの威厳が、そのコートにはあった。  この国では言わずと知れた、将軍クラスの軍服だ。  ジークが出勤する際、ディアナはいつも玄関まで見送りに行き、彼がコートに袖を通すのを手伝っている。百五十六センチのディアナと、百八十七センチのジーク。必然的に背伸びせざるをえない妻に、夫はそっと姿勢を低くする。 「いつもすまないな」 「いえ」  軍人という特殊な職種ゆえ、家を出る日時も不規則なのだが、嫁いでから今日まで、ディアナは一度もこの見送りを欠かしたことがない。 「体がつらいなら、今日は家事をしなくていい。ゆっくり休んでいてくれ」 「お心遣い、ありがとうございます」  それは夫のため、というよりも。 「じゃあ、いってくる」 「はい。……いってらっしゃいませ」  むしろ、妻としての義務感から生まれた行動。  貴族の屋敷にしては異例だろうが、フレイム邸には、使用人なるものが一切存在しない。専属の庭師やハウスキーパーを年に数回雇ってはいるものの、日々の家事はディアナがすべて一人で担っている。  結婚前、ジークはほとんど国外に赴任していたため、この屋敷には誰も住んでいなかった。たまに戻ったとしても、自分の面倒は自分で見ていたので、人手を欲する要素などまったくなかったのだ。  結婚する際には、メイドや執事を雇わないかとの提案が彼のほうからなされたのだが、ディアナはこれを断り、自ら手間を買って出た。なぜなら、亡くなった母がそうしていたから。  この妻の頑なな意志を、夫はちゃんと汲んでくれた。「無理だけはしてくれるな」——そう言葉を添えて。  彼が優しいことは十分に承知している。とても嬉しいし、心から感謝もしている。……が、彼女には、夫を愛するという感情がいまいちよくわからなかった。  まだ十代。経験不足ももちろんあるが、なんの前触れもなく、ある日突然決められた結婚に、戸惑うなと言うほうが無理だろう。彼が歩み寄ってくれているおかげで、徐々に距離を縮められてはいるけれど、不安や恐怖を完全に拭い去ることは容易ではなかった。  好きか嫌いかの二択で尋ねられれば、間違いなく『好き』を選ぶ。だが、体の関係にまで発展していないというのが現状だ。  広い玄関ホールに響いた、重くて冷たい閉扉音。  夫の背中を見送ると、真っ白なフレアワンピースの裾をふわりと翻し、幼妻はダイニングへと戻っていった。  自身のなすべき仕事を、淡々とこなすために。  ◆  妻が家事に勤しんでいる間、夫は国防に身を費やしていた。  現在は、諸外国の情勢が比較的安定しているため、ジークが戦地に赴くことはほとんどないが、多忙を極めていることに変わりはない。  現皇帝が即位し、『ヒトとの共栄』という施策を打ち出してから、およそ十年。国家として最も古い歴史を誇るこの国の影響力は大きく、周辺各国もこれに倣った独自の政策を次々と打ち出している。 「フレイム将軍、書類をお持ちいたしました」  ノックをし、室内へと入ってきたのは、ジークの部下である一人の男性。アッシュグレイの短髪に、ターコイズブルーの大きな瞳が特徴の、清爽な好青年だ。  ジャスパー・エミリオ。今年二十三歳になる彼は、軍人には珍しく、ヒトである。 「ああ、すまない」  紙とは思えないほどの鈍い音をともない、机の片隅に書類が積み上げられる。その高さは、整ったジークの顔を隠してしまうほど。  将軍には専属の執務室があてがわれ、来客の対応や事務処理等をここでこなすことになっている。この日は、朝からデスクワークに追われていた。  これから彼は、自身のサインを記入するべく、この紙のタワーすべてに目を通し、筆を走らせなければならないのだ。 「少しお休みになられてはいかがですか?」  整った顔が見える正面へと移動し、ジャスパーが遠慮気味に提案する。  今朝、登庁してからというもの、この上司はろくに休憩をとっていない。有能ゆえ、回ってくる仕事量が多いのは事実だが、手の抜き方はちゃんと心得ている。器用だし、要領だっていいはずなのに、これほどまで根を詰めて働くなんて……失礼な言い方かもしれないが、彼に似つかわしくない。  そう思案を巡らせるジャスパーに、ジークが笑って告げる。 「気遣いは嬉しいが、早く帰りたくてな。その言葉だけ、ありがたく受け取っておく」  なるほど、と部下は得心した。この上司は新婚ホヤホヤだった、と。 「奥方様は、確かヒトでいらっしゃいましたよね」 「ん? ああ。若いのに、本当に良くしてくれている」  妻のことを話すジークは実に幸せそうで、ジャスパーはおのずと破顔した。  しかし、それと同時に、彼の胸中では複雑な感情が渦を巻いていた。 「不躾を承知で申し上げますが……」  目を伏せ、躊躇いがちに口を開く。 「将軍がヒトの女性を娶られたことは、正直、意外でした。……自分はヒトなので、大変勇気づけられましたけど」  ただでさえ、ひときわ目をひく存在。ヒトと結婚するなど、注目の的にならないはずがなかった。そのうえ、現皇帝からの信頼も厚いとなれば、自然といろいろな憶測が飛んだ。  よく耳にしたのは、「皇帝陛下の施策を率先して遂行するために、ヒトと結婚したのではないか」というもの。  市民レベルでは、竜人とヒトの夫婦はわりと多く存在する。それは年々増加の一途を辿っており、とても好ましい傾向ではあるのだが、貴族界における異種婚は前代未聞だった。   それでも、この施策が浸透しているおかげで、大多数の国民が二人の結婚を祝福した。婚礼を執り行ってからもしばらくの間は、国中がお祭りムード一色で、その経済効果たるや凄まじいものだったらしい。  そんな中、ヒトはディアナのことを『我々の希望の星』だと謳い、その小さな双肩に自分たちの未来をそっと託したのだった。 「種族間での優劣など無意味だ。どちらが欠けても、この世界は成り立たなかった。文明を築けたのも、そこから技術や文化が発展したのも、互いの努力が実を結んでこそだ」  道を拓き、前に進むためには、相互の協力が不可欠なのだと、ジークは言葉を続けた。  これに感銘を受けたジャスパーは、ジークの目を見据え、大きく頷く。これほどまでに偉大な人物に仕えられる喜びを噛み締めながら、彼が周囲から慕われ、称賛される所以を、改めて心に刻み込んだ。 「……まあ、ヒトだからという理由で、妻と結婚したわけではないのだがな」 「え……?」  何かを思い出すように、何かに想いを馳せるように、ジークが表情を和らげた。これに対し、疑問符を浮かべているジャスパーに、にこりと微笑みかける。  最後のひとことが少々気にかかったが、視界の端で半端ない存在感を醸し出している書類の山に、これ以上長居は禁物だと考えた部下。深々と一礼すると、踵を返し、この部屋をあとにした。  ◆  休憩を返上した甲斐あって、ジークは早々(はやばや)と帰宅の途につくことができた。  玄関を開けたとたん、彼の鼻孔をくすぐったクリーミーな香り。どうやら、今夜のメニューはシチューらしい。  ドアが閉まる音を聞きつけたのだろうか。パタパタと足音を鳴らしながら、エプロン姿のディアナが出迎えてくれた。今朝に比べると、心なしか、顔色に精彩を取り戻しているような気がする。 「おかえりなさいませ」 「ただいま。いい匂いだな」 「もう少しで支度できますので、それまでごゆっくりなさっていてください」  髪を後ろで一つに結い、袖をたくしあげたその姿は、まさに主婦そのもの。顕わとなった耳には、左側だけだが、小さなホワイトパールのピアスが上品な光を放っている。  動く際、邪魔にならないように工夫するのは当然のことだが、妻のこの格好を初めて見たとき、ジークは衝撃を受けた。とても旧家の令嬢だとは思えなかったからだ。  それと同時に、いたく感心した。  物心ついた頃から、彼の周りにありふれていたもの。それは、幼い時分よりブランドもので着飾り、派手な生活を送る貴族令嬢たちの、高飛車な笑い声と自慢話だった。  彼女たちや、見境なくそれらを買い与える高慢な親たちを目にするたびに、「なんて滑稽なのだろう」と幼心に思ったことを、今でもよく覚えている。  もちろん、皆一様にそうというわけではない。今は亡き彼の母親は、伯爵家の出身だったにもかかわらず、それほど体裁を気にしてはいなかったのだ。けれども、マイノリティーであることは否めなかった。  周囲の価値観と己の価値観のズレを感じながら成長したジーク。そんな彼のもとに舞い込んできたディアナの存在は、彼にとってこの上なく貴重で、心地好いものだった。  ラフな格好に着替えを済ませ、愛する妻と夕食をともにする。忙しない彼の、つかの間の安息。交わす言葉は少なくとも、同じ時間を過ごせているというだけで十分幸せだった。  食べ終わると、ディアナは息つく間もなく洗い物に取りかかる。  以前、ジークは家事の手伝いを妻に申し出たことがあるのだが、それはそれはものすごい勢いで断られてしまったのだ。家事は絶対に自分がすると固く決めているようで、どうしても譲れないらしい。  せっせと働く妻の姿を横目に頬を緩めながら、ダイニングテーブルに着いたまま夕刊に目を通す。  ……と、不意に目に留まった一つの不穏な記事。直前までとは打って変わり、その表情は、たちまち険しいものになった。  それは、反政府派の竜人八人が施策の撤回を求め、とある商業施設に人質数十名をとって立てこもったというもの。犯人グループは、その半数が逮捕され、残りの半数はその場で射殺されたと記されていた。  実のところ、この手の事件は初めてではない。現体制に不満を持つ一部の暴徒化した連中が、こうした事件を国内各地で起こしているのだ。しかも、不満を持っているのは市民だけではない。貴族の中にも、現皇帝の施策に対する反対派は存在し、彼らが連中に資金を提供しているという噂もあるほど。  近隣諸国との外交関係は安定している。だが、国内には、不安かつ危険因子が、いたるところに(くすぶ)っているのだ。 「あ、あの……お茶を、お持ちいたしました」  眉間に皺を寄せ、苦々しい顔つきで記事を睨みつけていると、妻がおそるおそるハーブティーを運んできた。ハッとし、すぐさま皺を伸ばす。 「ありがとう、ディアナ」  ただでさえ、自分との結婚に戸惑っている彼女を、これ以上畏縮させたくはない。いつものように微笑んでやると、彼女の表情が微かに和らいだ。  ほかの者にはわからない程度の変化。夫は、最近になってようやく、感情の乏しい妻のその機微が読み取れるようになってきた。 「洗い物は済んだのか?」 「はい」 「そうか、ご苦労だったな。せっかくだから、一緒に飲まないか?」 「え? あ、はい……」  ジークが一緒にハーブティーを飲むよう促すと、ディアナは自身のカップにそれを注ぎ、椅子に腰掛けた。  何をするにも遠慮がちな妻に、口角は上がるものの、眉は下がってしまう。もっと図々しくてもいいくらいだが、これを口にしたところで困惑することは目に見えている。  ディアナが実家でどのような仕打ちを受けていたのか、薄々勘づいてはいた。控えめな性格になってしまったのも、仕方のないことなのだろう。  結婚した当初から決めていたのだ。彼女のペースに合わせようと。彼女が心を開いてくれるのを待とう、と。  だから、何事においても無理強いはしたくなかった。当然、夜の営みも。 「お前の淹れてくれるハーブティーは美味いな」  こくんと喉を鳴らし、謝意も含めた素直な感想を述べる。 「あ……ありがとう、ございます」  すると、頬を薄桃色に染めた彼女は、呟くようにお礼を言い、俯いてしまった。どうやら照れているようだ。このレアな反応に、ついつい顔が綻んでしまう。  一方のディアナも、改めて彼の優しさに触れ、なんともいい得ぬ温かさに心が包まれるのを感じていた。  二人を取り巻く柔らかな空気。互いの心の距離を確実に縮めながら、この日も、夫婦の夜は静かに更けていった。
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