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スピネルが導く夜明け
石畳で舗装された斜面をゆっくりと上る二組の足。一組がもう一組に歩調を合わせ、速度を落としている。
黒の皮ブーツと、黒のショートブーツ。鈍い音と甲高い音を互いに共鳴させながら、上へ上へと歩みを進める。
「足、つらくないか?」
「はい。まだまだ大丈夫です」
隣を歩いている妻に声をかけると、思いのほか元気な返事が返ってきた。その語調と表情から、けっして無理をしているというわけではなさそうだ。とりあえず安心した夫は、そのまま目的地を目指した。
鼻をかすめる風は、麓で感じたものよりも明らかに冷たい。高度が上がっている証拠だ。けれど、不思議と寒さは気にならなかった。
葉が落ちてしまった木々の間を道なりに進むと、少し開けた場所に出た。
小高い丘の上。眼下に広がるのは、夫婦が暮らしている都会の街並みだ。
「……うわあ……」
思わずディアナの口から零れた感嘆の声。あまりの美観に、見事に心を奪われてしまったようだ。
その場にじっと立ち尽くす。彼女が胸元に抱えた花束を、黄金色の風がふわりと撫でた。
青、白、薄紫——ここへ来る前に、あの日と同じくあつらえてもらった献花だ。まったく同じものが、ジークの腕にも収まっている。
供える先はもちろん、
「ディアナ。こっちだ」
「あっ、すみません……!」
夫の両親——ゼクスとルナリアの墓前だ。
それほど大きくはない共同墓地の一角に、花崗岩で作られた墓碑が二つ並んでいた。
淡い青色と赤色。青いほうに父の名が、赤いほうに母の名が、それぞれ生没年とともに白字で刻み込まれている。父の墓前にジークが、母の墓前にディアナが跪き、同時に花を手向けた。俯き、胸に手を当てて黙祷を捧げる。
夫婦のほかには誰もいないこの場所。聞こえてくるのは、草木のさざめきと、鳥たちのさえずる声だけだ。
しばらくして、先に立ち上がったのは夫のほうだった。一歩後ろへ下がり、いまだ祈りを捧げている妻に視線を送る。
妻は今、両親に対し、何を思っているのだろうか。掘り下げて聞くつもりはないけれど、やはり少し気になってしまう。
母が亡くなって七年、父が亡くなって五年。あっという間だった。
自分は良い息子だった、とは言えない。周囲はそう評価してくれているものの、胸にぽっかりと空いた部分は、いまだ埋められずにいた。
こんな自分を、周りは『すごい』と賞賛してくれるけれど、本当に『すごい』のは、こんな自分を信用し続けてくれた両親のほうだと思う。
そのせいで、孫の顔を見せることは、ついにできなかった。
十代後半から二十代前半。とくに結婚を意識していたわけではなかったが、それなりに女性と付き合ってきた。どれも長続きはしなかったが。
父が病魔に冒されてからは、付き合うことを一切やめた。ちょうど仕事も過酷な時期だったゆえ、とてもそんな気になどなれなかった。父が亡くなり、気づけば自分は絶望の淵に佇んでいた。
自身の心奥で大きく口を張った、底の見えない真っ暗な闇。いっそこのまま吸い込まれてしまおうか。
……馬鹿なことを。我に返り、自分はこんなにも脆かったのかと嘲笑した。
そんな折、街中で一人の少女を見つけた。父が亡くなって以来、モノクロだった景色が、再び鮮やかに彩られた瞬間だった。
母が言っていた『結婚したいと心から思える相手』——それが、ディアナだったのだ。
「素敵な場所ですね」
少々浸っていると、祈り終えた彼女がこちらへやってきた。彼女の言葉に同意し、「ああ」と一言頷く。
「この丘の中腹に湖があって、その畔に綺麗な庭園があるんだ。昔よく三人で来ていた。帰りに少し寄ってみるか?」
「はい。是非」
今の自分の姿を両親に見せられないことは、とても残念だと思う。そうは思うが、後悔はしていない。
「あっ、もう少しだけここからの景色を眺めてもいいですか? すごく感動してしまって」
唯一無二の存在と、巡り会うことができたから——。
夫の快諾を得たディアナは、墓地を出ると、街が一望できる場所へ移動した。
ジークは、そんな妻のあとをゆっくりついて歩いた。というより、ほとんど動かなかった。後ろから見守っている、といったほうが適当かもしれない。
ディアナの蒼い双眸に映る、白石の壁と木製の扉。彼女たちが住む街の建造物は、ほとんどがこれらを使用して造られている。いわば伝統的な街並み。そこには、安らぎや温かさが滲んでいた。
丘の上を風が吹き渡る。二人のもとを颯爽と駆け抜ける。
次の季節を、運んでくる。
陽が落ちてきた。今の時季、日没が早いのは自然の摂理だ。頭上では、先ほどよりも鳥たちが騒がしくなってきている。雲も出てきた。
そろそろ次の目的地へ赴かなければ。妻を呼び戻そうと、ジークが口を開きかけた。
「——」
そのとき。
坂道のほうから、こちらへと向かってくる人の気配を感じた。……おそらく一人。足音から推察するに男性だ。自分たちのように、墓参に来た遺族だろうか。
だが、その人物の顔が見えた瞬間、ジークは目を見開き、条件反射で背筋を伸ばした。
「……ああ。来ていたのか」
それから、深々と頭を下げた。
圧倒的風格と溢れ出る威厳。全身に纏っているオーラは、まさしくホンモノ。
現れたのは、軍の最高司令官である元帥——セオドア・シュトラスだった。
彼もまた、完全なプライベートのようで、青い軍服ではなく真っ黒なロングコートを着用していた。その手元には、供物用のリースが二本。いつもは束ねているプラチナブロンドの長髪も、今日は背中に流している。
「お前一人……のはずはないな」
フッと笑い、その対象へと目を遣る。
普段は見る者を射貫くほどの炯眼だが、職務外だからだろう、今彼の目元に宿っているのは、本来の穏やかな人柄だった。
視線の先には、依然として絶景に見惚れている部下の妻。こちらの様子には気づいていないようだ。
本当にヒトの妻を娶ったのか……と、実際目の当たりにして、改めて実感した。
言うまでもなく、セオドア自身、ヒトに対する差別心などまったく抱いていない。現皇帝の施策に関しては全面的に支持しているし、立場上、率先して遂行している。
ジークが軍人だから驚いているのではない。『貴族』だから、驚いている。
……いや。むしろジークだから、あいつの息子だから、べつにそれほど驚くことではないのかもしれない。
あいつのリベラルな思考回路には、よく度胆を抜かれたものだ。
「ディアナ」
離れた場所にいる妻に向かって、少々大きな声で呼びかける。腕を伸ばし、手招きをすると、妻は小走りで戻ってきた。さながら子犬のように。
セオドアが何をしにここまでやって来たのか、ジークにはわかっていた。彼の目的は自分たちと同じ。もう少し、ここに留まらなければ。
ジークの隣に到着したディアナは、初対面のセオドアに微笑みかけると、ぺこりと挨拶をした。もちろん、貴族ではないこの初老の男性が誰であるかなど、彼女は知る由もない。夫の知人……くらいの認識だろう。
数十秒後、彼女の心臓は、大気圏を突破することになる。
「景色は堪能できたか?」
「はい、とても素敵でした。……ジーク様。あの、こちらの方は……」
「ああ。この御方は、セオドア・シュトラス元帥だ」
「はじめまして、ディアナさん」
「あっ、はじめまして。ディアナ・フレイムと申します。いつも主人が…………? げんすい……げん、す……っ!?」
幾度となく夫の関係者に申し述べてきたため、自然と口をついて出た定型文。
しかし、目の前の竜人男性の役職名と階級が頭の中で繋がった瞬間、ディアナは最後まで言い切ることができなかった。まるで石のように固まり、瞬きをすることさえ忘れてしまっている。
石像と、化してしまった。
「はははっ。そんなに緊張せずとも、私はただの老翁ですよ」
微動だにしないディアナに対し、セオドアは物腰柔らかに笑って見せた。
だが、いくら深みのある渋い声でこんなことを言われても、フォローになんてなるはずがない。大国の軍のトップがただのじいさんではないことくらい、誰にだってわかる。
いまだかつて見たことのない妻の反応に、夫は苦笑を浮かべた。無理もない。心の中で小さくエールを贈ると、放心状態の彼女を支え、セオドアとともに再度墓前へと足を運んだ。
徐々に下がる気温。時折吹く風は、時間を追うごとにその冷たさを増している。
セオドアは、持っていたリースをそれぞれの墓碑に立てかけると、右手を胸元に当て、静かに目を閉じた。その様子を、真剣な眼差しでジークが後方から見つめる。ようやく平静を取り戻した妻と一緒に。
風が凪いだ。辺りがひっそりと寂返る。
鳥の声も、聞こえない。
「もう五年になるのか。あいつが逝ってから」
「……はい」
絞り出された音吐に張り付いた、例えようのない空虚感。
セオドアは、ゼクスの同僚であり、親友だった。
生まれ年はセオドアのほうが三年ほど早いが、軍に入隊した年は同じ。ほぼ同時期に昇進・昇格という道を辿ってきた。激動の時代をともに駆け抜け、互いに尊敬し合い、切磋琢磨しながらこの国を守ってきたのである。
唯一違ったのは、ゼクスが先に元帥へと就任したこと。けれども、これに関し、妬みや嫉みといった感情は一切生まれなかった。
ゼクスが元帥として、セオドアは大将として、信義の名の下に職責を全うしてきたのだ。
五年前、ゼクスがこの世を去るまでは。
「今でも信じられん。あいつが死んだことも、自分が元帥でいることも」
「え……?」
唐突な上官の言葉に、ジークは思わず聞き返してしまった。その言葉の真意を自分の中で消化する間もなく、彼は話を続ける。
墓碑を——そこに刻み込まれた戦友の名を、じっと見つめながら。
「私のほうが年も上だからな。あとのことはあいつに任せて、先に隠居するつもりでいた。……まさか、あいつから役職を引き継ぐことになるとは、夢にも思わなかった」
苦衷に顔を歪める。
病室でのゼクスとのやり取りが、脳裏をよぎった。
——あとは任せたぞ、セオドア。
——何を言ってる。俺はお前より先に退官すると決めてるんだ。年を考えろ。
——まあそう急ぐな。……最期の、頼みだ。
——……。
——この国を……頼む。
これが、ゼクスと交わした最後の会話となった。
なにが「急ぐな」だ。それはこっちの台詞だ。墓参に来るたび、そう悪態をついてやる。
「私に引き継がせるために、いろいろと準備をしていたらしい。おかげで、すんなりと納まることができた」
後任はセオドアに。と、固く決めていたゼクスは、職務内容の整頓から各方面への根回しに至るまで、すべての段取りをそつなくこなしていた。それも、病床から。
最後の最後まで、大したヤツだった。
「……でもまあ、このポストの居心地もそう悪くはない。若い者の成長を見渡すには最高の場所だ。隠居前に、良いものを見せてもらった」
「……」
若い芽が息吹き、成長し、輝きを放つ様は、まさしく絶景。これに勝る喜びはない。それを知った。
親友がなによりも無念なのは、きっと、愛する息子の成長を見届けられなかったことだろう。ジークが士官学校へ入学したときも、軍へ入隊したときも、あまり口には出さなかったが、心の底から喜んでいた。
その悔しさ、その慟哭の思いたるや、計り知ることなどできはしない。だから自分は、心に誓った。
「次にこの国を引っ張っていくのはお前たちだ。とくにお前のことは、陛下をはじめ、皆頼りにしている」
親友に託された想いを、しかと後世へ伝えていくための、架け橋になるのだと。
「……元帥……」
恭敬する偉大な上官の言葉に、ジークは深く長く頭を下げた。
自分を評価してもらえたことは純粋に嬉しい。だが、それ以上に、彼と父のたゆまぬ絆に心が震えた。
感謝、感激、感動……さまざまな気持ちが胸を交錯する。今にも張り裂けてしまいそうだ。
一方妻は、夫のこの姿を、実に眩しそうに見つめていた。
きっと夫のことだから、両親が亡くなったときも、気丈に振る舞っていたに違いない。周囲に気を遣って。それでも、敬愛する父のように立派な軍人になろうと、前を向いて歩みを続けてきたのだ。
それを考えると、胸がいっぱいになった。
「ディアナさん」
「……え? あ、はいっ!」
突然、セオドアに名前を呼ばれた。
心の準備などまるでできていなかったディアナ。そのせいで、なんとも間の抜けた返事をしてしまった。
いったいどんな言葉をかけられるのだろうか。落ち着いていた心が、またもや逆立った。
オドオドしている彼女に、セオドアは優しい眼差しでにこりと微笑む。そして一呼吸置いた後、温色を織り交ぜた声で、包み込むようにこう言った。
「軍人の妻は大変だろうが、家で待っていてくれる人がいるだけで我々は頑張れる。どうか彼と支え合って、この国の未来を、築いていってほしい」
やんでいた風が再び走り抜けた。
鳥たちが一斉に羽ばたいてゆく。
「……、……はい」
雲の合間から降り注ぐ、幻想的な薄明光線。
かすかに、けれど確かに、未来を告げる暁鐘の音が、遠くで鳴り響いた。
「素晴らしい御方ですね」
「ああ。……あの方だから、皆ついて行ける」
「……すごかったです。オーラが」
「やはりお前も感じたか」
「はい。なんと言いますかこう、ぐわっと迫ってくるものが、ですね」
「はははっ。さすがディアナだな。よくわからんが、よくわかる。……どうする? 少し遅くなってしまったが、寄って帰るか?」
「あ、いえ。今日はもう。……また次、お義父様とお義母様のお参りに来たときに、連れて行ってください」
明日も明後日も、来年も再来年も、
その先もずっと——
「また今度でいいか?」
「はい。また今度でいいです」
彼らの未来は、繋がってゆく。
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