アクアマリンと欠けたピース(1)

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アクアマリンと欠けたピース(1)

 粘ついた潮風。一切の光を呑み込んだ曇天。  まるで獲物を待ち構えるかのように静かなコールタールの海が、不気味に揺らいでいる。  ザリッ——  アスファルトを踏みしめる靴音が地面を這った。周囲が閑散としているせいで、そんな微音でさえも鼓膜によく当たる。  港の片隅にずらりと立ち並ぶ倉庫群は、すべてのシャッターが閉ざされ、実に殺伐としている。その棟と棟の間にできたスペース。潮騒と独特の匂いが溜まる狭い場所に、彼らはいた。 「……おい。さっきから何本目だ? いい加減にしろ」  木箱に腰掛けた痩身の男が呆れたようにぼやく。 「うるせぇ、仕事中ほとんど吸えなかったんだ! 今くらい吸わせろ!」  これに対し、倉庫の壁面に凭れ掛かった小太りの男が、唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。  この狭隘(きょうあい)な空間に二人。相変わらず、全身が見事に闇と同化している。  自身の斜め前で煙草をふかす相棒に注意した痩せ男だったが、された本人はまったくもって聞く耳など持っていない。さらには逆ギレ。  はあ、と短い溜息を吐く。いくらこのリアクションに慣れているとはいえ、出るものは出てしまう。だが、「お前の声のほうがうるさい」という言葉は、あえて飲み込んだ。絶対あとが面倒くさい。  それに、いくら大声を出したところで、ここへは誰も来ないのだ。  そういうことになっている。 「……チッ」  どうやら最後の一本を消費してしまった様子。たいそう忌々しそうに舌打ちをすると、彼は空箱をぐしゃりと握り潰した。  二人組が請け負っていた仕事を完遂したのは四時間ほど前。日付が変わってすぐ、真夜中のことだった。  どっと押し寄せる疲労感に、なんとも言い得ぬ倦怠感。体力、というよりも、神経がすり減っている。それぞれの身を引き摺るようにして、やっとの思いでこの港まで戻ってきた。  彼らが担っているのは、そんな仕事だ。 「……それにしても、金持ちってのはどいつもこいつもヒト使いが荒いな」  仕事の一部始終を想起し、痩せ男はその顔を歪めた。まるで苦虫を噛み潰したような顔。  座っていた木箱から立ち上がると、彼は首をぐりんと一度だけ回した。船の乗り心地が悪かったわけではないが、長旅で凝り固まってしまった筋肉をほぐす。 「今に始まったことじゃねぇだろ。……あいつら、オレらのことなんざなんとも思っちゃいねぇんだ」  小太りの男が、壁から剥がすように背中を持ち上げる。彼が相方にフォローをいれるなど滅多にないことだ。彼もまた、職務に関する不平や不満が蓄積しているらしい。  ひょんなことからタッグを組んで早五年。  第一印象は、お互いお世辞にも『良い』とは言えない。だから、まさかこれほどまで一緒にいることになるとは、毛ほども思っていなかった。  まともに働いていた時期もあった。給料はけっして良くはなかったけれど、それなりに誇りを持って汗水流していた。理不尽だと腐ることもあったが、毎日はそこそこ充実していた。  だが、闇の世界を知ったとき、彼らは道を踏み外してしまった。その自覚はもちろんある。戻れないということもわかっている。 「おら、そろそろ行くぞ。もうすぐ夜が明ける」  もう自分たちには、光を見る資格など、ないということも。 「しばらく休みか」 「ここんとこ立て込んでたからな。当分余裕があんだろ。にゃ、抜かりなんざねぇよ」 「は資金繰りが難航してるっていうのにな。大丈夫なのか?」 「ンなこと知るか。あの人に比べりゃ、向こうは大したことねぇってだけの話だ。いくらお(かみ)が目を光らせてるからってよ。……それよか、次の仕事に集中しろ」 「……」 「間違いなく、これまでで一番デカいヤマになる。……失敗したらオレらは終わりだ」  一寸下は地獄。本当の、地獄。  けれどもやるしかない。やらないという選択肢などあり得ない。  ザリッ——  帽子を深く被り直し、息をひそめた彼らは、再び暗闇の中に溶け込んで消えた。  ◆ ◆ ◆ 「パセリ、タイム、バジル……ローリエ」  夕飯に使用するハーブを頭の中でクルクルと回し、呪文のように詠唱する。手には小さな小さなバスケット。その中には収穫鋏が入っている。  メニューはすでに決まっているゆえ、ディアナは仕上がる味を想像しながら外に出た。  西風が冷たい。短時間だからと油断せずにストールを羽織ってきて正解だった。寒さからその身を守るように背中を丸め、肩をすくめる。そうして、華奢で端正な足を庭先へと運んだ。 「郵便でーす」  ちょうどそのとき。門前に、大きな車輪が特徴的な、赤い自転車が止まった。  飛び込んできたのは、溌剌とした青年の声。ポストマンだ。 「ご苦労様です」  ディアナが笑顔を向けると、青年もまた笑顔で返してくれた。  紺色の帽子に紺色の制服。上着の胸元には徽章(きしょう)が附されている。なんとも上品なシルバーの徽章だ。  彼がこの地区の担当になったのは今年の春のこと。入局六年目にして、セレブが集うこの高級住宅街を任されたらしい。  配属になった当初はガチガチに緊張していた彼。ショルダーバッグから郵便物を取り出す手は震え、挨拶する声もうわずっていた。指導役の上司に「しっかりしろ!」と叱られていたことを、今でもよく覚えている。  実はそんな彼に、ディアナは密かに親近感を抱いていた。  彼女も、ここへ嫁いできたのは今年の春。彼とほぼ同時期だ。  慣れない土地での独りの留守番は、やはり心細かった。来客を迎えることはおろか、電話を取ることさえとても怖かった。かといって、投げ出すことなどできるはずもない。感情を表に出すことなく、「これは義務だ」と自分に言い聞かせた。なにより夫に迷惑をかけたくなかった。  あれから半年以上。  今では夫の留守を独りで守れるようになった。彼も、独りで立派にこの地区のポストマンを務めている。  ディアナの中で、彼とのこの共通点は、小さな小さな宝物になった。……口に出したりはしないけれど。  胸にひっそりと温かさを宿し、芝生の上を歩いて彼のもとへ。持っていたバスケットを小脇に抱えると、両手で直接彼から受け取った。  だいたいは、門柱に備え付けてある郵便受けへ投函してもらうのだが、こうしてタイミングが重なったときは、いつも手渡しだ。 「ありがとうございました」 「いえ。それでは失礼します」  ディアナに一礼したポストマンは、次の目的地へと自転車を走らせた。勇健な(もも)が勢いよくペダルを回す。  夕日に照らされる彼の背中を見送ると、足取り軽やかに菜園へと向かった。  パセリ、タイム、バシル、ローリエ——そう頭の中で繰り返しながら。  この日の郵便物は、真白い手紙一通だけ。しかも珍しくディアナ宛てだった。  いったい誰からだろう? 文字を見るかぎり、ペンで書くということに慣れていない……ような気がする。  首を傾げ、差出人を確認するべく、手首を内側に捻って封筒をひっくり返した。 「……え?」  そこに綴られていたのは、たいそう馴染み深い名前。 「シエル?」  Ciel Grante——歳の離れた彼女の弟だ。  意外な相手に目を丸くする。弟から手紙が届くなど思ってもみなかった。書かれてある内容にもまったく見当が付かない。  とりあえず、夕食の準備も控えているため、庭に出てきた目的を遂行する。夫が帰宅する前に、ちゃんと作っておきたい。  目当てのハーブを四種類ともきっちり採取すると、ディアナは家の中へと戻った。  いったいどんなことが書かれてあるのだろう? 中身が気になることは否めない。だが、それ以上に、幼い弟の成長に大きな喜びを感じていた。  夕食の支度が済んだら読んでみよう——喜びの中に、ほんのわずかな緊張が入り混じる。  それでも、彼女の心は弾み、その表情は煌々と輝いていた。
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