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Chapter5:アメジストから零れる雫(1)
もう一度父と話がしたい——ディアナはずっとそう願っていた。
物心ついた頃から父は自分に厳しかったが、今のようにけっして余所余所しくはなかった。母と三人でよく出かけたりもしたし、なにより笑っていた。
だが、母が亡くなったあの日を境に、父は変わってしまった。
笑わなくなった。叩くようになった。距離を、とるようになった。
自分のせいだと思った。母が亡くなったことも。父が変わってしまったことも。
だから、感情を表に出すことをやめた。自分の心の奥を誰にも知られないように。弱い自分を守るために。
けれど、それ以上に、自分に対する戒めでもあった。
結婚して家を離れた今。愛する彼が戒めを解いてくれた今。もう一度父と、ちゃんと話がしたい。
家族として。
父と、娘として。
◆ ◆ ◆
ディアナは歩いていた。
もつれそうになる足をどうにか前に運んでいた。地面を踏みしめている感覚など、もはやない。夫が時折案じてくれる声にも、十分に応えることができなかった。
しんしんと凍てつく冬の半夜。冷えた大気が、青白い月の光を増幅させている。そこに広がるのは無音の世界。すべての音を呑み込んだ、不気味な静寂だ。
今から遡ること半時間前、フレイム邸に一本の電話が入った。時間が時間ゆえ、怪訝に思いながらもディアナは応対した。電話の主は、実家の執事であるフィリップだった。
彼の様子から、何かただならないことが起こったのだとすぐに予想はついたが、突として告げられた事柄に、ディアナは一瞬呼吸をすることができなかった。
——旦那様が……撃たれました。
通話時間わずか二分。
終始隣で見守っていたジークに事の顛末を訊かれたディアナは、フィリップの言葉を一言一句そのまま伝えた。
それからの記憶はない。
気がつくと、父が運ばれたという病院に到着していた。正面玄関はすでに施錠されているため、夜間用の入り口から中へと入る。がらんと静まり返ったロビーを横切り、フィリップから知らされた病室へ。
やっとのことで辿り着いた目的地。その外には、二人の身内がいた。
「……あっ、ねえさまっ!」
「シエル……!」
姉の姿を見つけたとたん、弟は駆け出した。
「とうさまが……とうさまがっ……!!」
不安に顔を歪め、抱きついてきたシエルを、ディアナはしっかりと受け止めた。
おそらく今の今まで我慢していたのだろう。張りつめていた緊張の糸が切れた彼は、声を上げて泣き出してしまった。震える小さなその背中を、ディアナは身体ごとぎゅっと抱き締める。
「将軍、申し訳ございません。こんな夜中に」
そう頭を下げたのは、先ほど連絡をくれたフィリップ。ハロルドの秘書から急報を受け、シエルと継母と三人でここへ駆けつけたらしい。
「いえ。……義父上の容体は?」
「幸いにも命に別状はございませんが、右の腿と脇腹を負傷されておりまして……長期の入院が必要になると」
沈痛な面持ちで、ハロルドの悲惨な実状を語る。脇腹は掠り傷程度だが、腿のほうは弾が貫通してしまっているらしい。しかし、意識ははっきりとしているため、話をするのは可能とのこと。
現在は、包帯の交換等、再度処置を施しているのだそうだ。
「お継母様は?」
「奥様は、先ほど本社のほうへ向かわれました。とりあえず、明日から数日だけでも業務の目途を立ててくると。……落ち着き次第、またこちらへ戻られるとおっしゃっておりました」
「そう……」
社長の突然の不在となれば、社員及び取引先の混乱は免れない。社に対する内外の信頼を損なわぬよう、継母は秘書とともに目下対応中だ。
ハロルドが経営する造船会社に、彼女自身も重役として収まっている。判断力と実行力は多分に備わっているため、そちらは任せておけば問題ないだろう。
「ねえ、フィル。お父様に何があったの?」
父の身にいったい何が起こったというのか。気掛かりなのは、それだけだ。
「わたくしも、詳しいことは存じ上げませんが……」
フィリップはこう前置きすると、自身が知り得る限りのことを夫婦に話した。幼いシエルに配慮し、言葉を選びながら。
この日の夜、ハロルドは財界の会合へ出席していた。定期的に開かれている、いわば顔繋ぎのようなもの。いつも参会している慣れた場所ゆえ、とくに誰も何も思わなかった。
終了時刻より少し前に、秘書が会場近くまで迎えに行く——ここまでは、何一ついつもと変わらなかった。
が、突如鳴り響いた二つの筒音に、周辺は一時騒然となった。
ハロルドの身を案じた秘書が会場に駆けつけたが、無情にも地面に倒れている彼を発見。救急車を要請した。
かなりの出血があったものの、偶然会場に居合わせた医者により、迅速で的確な処置がなされたため、大事には至らなかったのだという。
「警察へ通報は?」
「ええ、いたしました」
少し前まで、被害者であるハロルドから事情を聴くために、警察がここを訪れていたらしい。ハロルドの身体に配意し、「明日また出直します」と、長居はしなかったのだそうだ。
「ですが、どうやら難航しているようでして」
警察とのやり取りを想起したフィリップは、頭を落とし、目を伏せた。
「……」
ジークの貌が一気に険しくなった。
誰が何の目的で義父を……。
目撃者の不在、証拠の寡少。捜査が進展しない要因としては、この他にもいろいろと挙げられるだろうが、憂慮すべきは『近づきたいのに近づけない』ことだ。
最近の義父の行動と一連の出来事から、ジークはこの一点だけがどうしても払拭できずにいた。
「……シエル。今夜は遅いから、フィルと一緒にもう帰りなさい」
「えっ、でも……!」
今なお自身にしがみ付いている弟に向かって姉が言う。
少々言い様はきついかもしれないけれど、けっして突き放しているわけではないし、邪険にしているわけでもない。
「お父様は大丈夫。だから、今日は休んで、また明日いらっしゃい」
ただ、幼い弟の心身を、姉として思い遣っているだけなのだ。
「……はい」
そんな姉の気持ちが伝わったのだろう。
シエルは、ディアナの体から剥がれるように離れると、くるりと向きを変えてフィリップの足元に寄り添った。深憂に眉を顰める弟に、心配ないと微笑みかけてやる。
「フィル。この子のこと、お願いします」
「かしこまりました」
ディアナの依頼にフィリップは首肯した。シエルに対する彼女の気持ちは、フィリップとて重々感得済みである。
明敏な執事は、夫婦に黙礼すると、幼き主を連れ、当主のいない屋敷へと帰っていった。
「……そこに座ったらどうだ?」
この場に二人きりとなったディアナとジーク。
翳りを帯びたまま落ち着かない様子の妻に対し、夫が優しく声をかける。
「え? あ、はい……」
夫が指し示したのは、病室の入り口付近に設置されている長椅子。ここへ来てからずっと立ち通しである妻を労った一言だった。
「気は安まらんだろうが、体だけでも休めるときに休ませておけ」
「ありがとうございます。……あの、ジーク様」
「うん?」
「ジーク様もお帰りください。明日……というか、もう今日ですけど……お仕事に響いてしまいます」
だが、相手の体調を気遣っているのは妻とて同じだ。
今日も明日も明後日も……夫には勤めがある。休むわけにも、疎かにするわけにもいかない。今ならまだ数時間は、帰宅してから睡眠が取れる。
「私のことは心配しなくていい。これでも軍人だ。一応鍛えてあるからな」
しかし、夫はかぶりを振った。妻の正面に立ち、その小さな頭を撫でる。
フィリップとシエルには——とくにシエルには——気丈に振る舞っていたけれど、ディアナも等しく不安を抱えているはずだ。これまでにどんな仕打ちを受けていたとしても、ハロルドが父親である事実に変わりはない。今回は幸運にも一命を取り留めたが、存在を奪われてしまうかもしれないという恐怖は、彼女の心にかなりのダメージを与えたことだろう。
夫は、そんな妻のそばに寄り添っていたかった。
「お前と一緒にいさせてくれ」
「……ジーク様……」
一人になど、したくない。
「グランテ様の御身内の方ですか?」
と、そのとき。
病室から処置を終えた主治医と二名の看護師が出てきた。思わずディアナが立ち上がる。
ハロルドの主治医は、竜人の男性医師だった。
「!? フレイム将軍!!」
まさかここに一国の少将がいるなどとは思ってもみなかったのだろう。彼はジークの姿を見るやいなや目を丸くした。が、ハロルドとジークの関係が判明すると、納得してすぐさま平静を取り戻した。
「義父は?」
挨拶もそこそこに、ジークが主治医に尋ねた。
「それほど深刻な状態ではありませんが、退院までには時間を要します。まずは歩けるようにならなければ……」
撃ち抜かれた腿の傷は深く、しばらく立って歩くのは困難だろうと主治医は表情を曇らせた。
「……話を、することはできますか?」
揺らぎそうになる瞳と声を堪えながら、遠慮がちにディアナが問う。
最も斟酌すべきはハロルドの容体。それはディアナとて理解しているし、無理強いするつもりは毛頭ない。
だが、可能なら、許されるのなら、父と直接話がしたい。
そう、強く望んだ。
「……あまりお奨めはできませんが、様子を見つつ、十五分程度でしたら」
緊迫した糸を弛めることには難色を示しながらも、彼から返ってきたのは、娘としての彼女の心情を最大限に汲んだ答えだった。
謝意を込め、世話になった三人に頭を下げる。「何かあればすぐに呼ぶように」と言い残し、彼らはこの場をあとにした。
「……」
医者からの承諾は得られた。だが、素直に入室することは、やはり憚られてしまう。ノックをしようと握った手を構えるも、ディアナは項垂れ、固まってしまった。
父の無事を確認したい気持ちはある。話をしたいという気持ちもある。
スライドさえさせれば、扉は簡単に開く。それでも、この向こう側を正視することを、彼女は躊躇っていた。
ディアナとハロルドの間に立ちはだかるのは、複雑な心境と父娘関係。それも昨日今日の話ではない。十年以上も冷たく尖った関係だったのだ。気持ちをすぐに切り替えることなどできるはずもない。——怖い。
ふるっと、ディアナの肩が震えた。
硬結した彼女の肩に、そっと添えられた手。彼女が見上げた先には、「大丈夫だ」と無言で微笑む夫の姿があった。
——そうだ。自分は一人じゃない。こんなにも、自分のことを想ってくれる存在が隣にいる。
ジークに勇気付けられたディアナは、呼吸を整え、扉を叩いた。
ほどなくして中から聞こえたのは、紛れもなく父の声。緊張しているせいで頭がうまく働かないが、どうやら入室を許可してくれたようだ。
扉の取っ手に手をかけ、グッと力を込める。
意を決し、ディアナはその隔たりを取り払った。
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