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クリソプレーズに贈る讃歌(1)
路面に冴えた霜の結晶。それを照らす澄んだ陽光。
今朝の冷え込みは、今季一番だった。
新鮮に煌めく景色を振り返りながら、ジークは手元の資料に目を通す。そこには、文字と図解が視覚的にほどよいバランスで掲載されていた。
『サルでもわかるGPS』。
もはや突っ込む気力も失せるような刺々しいタイトルだが、彼らしさは遺憾なく発揮されている。
実を言うと、手首が怠いと嘆くぐらい分厚いものをイメージしていた。しかし、いざ手渡されてみれば、驚くほどにコンパクトだった。かといって、内容が薄っぺらいというわけではけっしてなく、非常にわかりやすい。
さすがはマキシム・ダリスだと、溜息と同時に笑みを漏らした。
遠征まで、ついに一週間を切った。その頃には、気温は今よりもさらに低下し、気候的には厳しさを増すだろう。
しかも、いまだ効果が想像の域を脱しないシステムを導入した初の演習。自身に圧し掛かる責任の重さは推して知るべしだ。
けれど、そんな温いことを言っている場合ではない。
鎮火することのない郊外でのテロ。国境を跨いだ人身売買。国同士の戦はなくとも、依然として息の抜けない国内の現状を鑑みれば、自分たちの為すべきことはおのずと見えてくる。
この国を——大切なモノを守ること。それが、自分たちに課せられた使命なのだ。
「……今頃、慌てているのだろうな」
愛おしい存在に想いを馳せながら、今度は苦笑を漏らした。一通り読み終えた資料を閉じ、執務机の中へと仕舞い込む。
あれから間もなく、ディアナとジークは病院をあとにした。病室を出る際、「また来ます」とハロルドに声をかけたディアナの表情は、安堵と淡い喜色に彩られていた。
限りなく真円に近づいた蒼月の下、二人は無事に帰宅。時刻はすでに深夜二時を回っていた。
就寝前にちょっとしたハプニングが起こったが、オタオタする妻を宥め、なんとか寝床についた。
それから数時間。疲労し、ぐっすりと眠っている妻を起こさぬよう、彼は一人そっと出勤してきたのである。妻の分の朝食を用意して。
これを見たディアナの様相は、想像に難くない。
メディアにすら取り上げられなかった昨夜の事件。国内随一を誇る造船会社の社長が銃撃されたなど、マスコミにとっては好餌となるはず。だが、容疑者として挙げられているのが有力な貴族だとは、到底報道できるはずもなかった。
珍しく悶々としていた朝一番。ジークは、セオドアから直接声をかけられた。
おそらく、警察からは、軍のほうに正確な情報が回ってきているのだろう。元帥である彼は、現段階での状況をすべて把握していた。
自分から話せるような新しい情報は特に何も持ち合わせていない。そうジークが謝罪すると、その下げた頭をセオドアにコツンと小突かれてしまった。
——馬鹿者。
セオドアは、ジークのことを、少将ではなく被害者の義子として純粋に案じていたのだ。
上官の優しい叱責に、頭よりも胸のほうがチリチリと痛み、熱くなった。
コンコン——
不意に、執務室のドアをノックする音が耳に飛び込んできた。瞬間、『部下』から『上司』へと気持ちを切り替える。
耳に馴染んだノック音。その主が誰であるかは既知のため、ジークは二つ返事で入室を促した。
「失礼いたします」
軽く遊ばせたアッシュグレイの短髪に、まるで海を閉じ込めたかのように透き通ったターコイズブルーの瞳。
慣れた様子で入ってきたのは、ジャスパー・エミリオだった。
「お疲れ様です。今、コーヒーをお持ちいたしますので」
そう言って、これまた慣れた様子でコーヒーの準備をし始めた。
「昨夜は一睡もなさっていないのでしょう?」
こんな言葉を付け加えて。
「わかるのか?」
「ええ。……将軍のことですので」
困り顔に微笑を滲ませたジャスパー。昨夜の出来事は、もちろん彼も知っている。
これに対し、ジークも似たような表情を返した。異論などない。まったくもって彼の言うとおりだ。
ディアナを落ち着かせるため、ともに布団へと入ったものの、彼女の寝息を確認するとすぐに寝室から出た。それからは、朝までずっと書斎で過ごしていた。……眠れなかったのだ。
リヴド伯爵の陰謀、存在するはずのもう一人の息子、ヴェリル男爵の投資話、ハロルドの襲撃事件。少しでいいから、この短期間で一気に噴出した事実を整理する時間が欲しかった。
それから、
——あっ!
——どうした?
——ピアスっ……!
——なくしたのか?
——あ、いえ……もう休もうと思っていたので、外して部屋に置いたまま病院に行ってしまって……。
——……。
——寝るとき以外は、ずっと付けていたものですから……。
——……そうか。
自身の気持ちを整理する時間も。
就寝前の妻とのやり取り。これに、彼の心は大きく揺さぶられることとなった。
一日寝ずにいることくらい、どうと言うことはない。有事において、軍人であるジークにとっては、さほどたいした問題ではない。
今、彼の心身を蝕んでいるのは、彼自身だ。
「……例の件、調べてくれたか?」
とはいえ、優先すべきは目の前の事案。そう自分に言い聞かせ、ジークは再び心に蓋をした。
「はい。……将軍のおっしゃるとおり、リヴド伯爵には息子が二人いたのですが、現在は長男一人だけのようです」
頷き、ジャスパーはコーヒーを机上へと置いた。カップとソーサーが、カチャリとかち合う。
先日、イーサンとマキシムとここで話をした際に浮上した話題。
もう二十年以上も昔、社交界のとあるパーティーで、ジークは初めてリヴド伯爵一家を目にした。父と話している伯爵の後ろで、まるで双子のようにそっくりな少年二人が、まるで静と動のように対照的な立ち居振る舞いをしていた。
静が兄、動が弟——そういう認識だった。歳は、自分よりも四つか五つくらい上……だった気がする。
二人にああ言われるまで、何も疑っていなかった。意識さえ、していなかった。
「次男は?」
ここ十年ほど、弟の姿を、一切見ていないというのに。
「……それが……」
「?」
とたんにジャスパーの顔が翳った。ジークが怪訝そうな視線を向ける。
そして、
「……ヴェリル男爵の、養子になっていました」
「!?」
その瞬間。
ジークの脳内パズルは、ほぼ完成した。
ジャスパーによると、リヴド伯爵の次男は、現在三十二歳。研究者である兄とは、年子とのこと。二十歳の時に、子供のいなかった男爵夫妻の養子となったらしい。
貴族は家の繋がりを重んじる。加えて、男爵が爵位を手にした経緯を踏まえると、せっかく得た家を途絶えさせないために養子を受け入れることは、ごく自然な流れだろう。
けれど、何か引っかかる。
「なぜ、養子縁組をしているにもかかわらず、弟は男爵家の息子として公の場に姿を見せないのでしょうか?」
誰もが抱いてしかるべき疑問。それをジャスパーは口にした。
「わからない……が、鍵を握っているのは男爵よりむしろ伯爵のような気がしてならん」
「……リヴド伯爵、ですか?」
何か引っかかる。
その『何か』を具体的に説明することはできないが、この養子の件に関してジークは、男爵よりも伯爵のほうが気にかかっていた。
あの隻眼。
獲物を舐めるように見定め、狙う、蛇のごときあの隻眼が——。
「おい、ジークっ!!」
刹那、空間が揺れた。
「……中将?」
割れんばかりの大声で、ノックもなしにいきなり部屋へ押し入ってきたイーサン。見かけによらず礼儀正しい彼にしては珍しい。
「なにをそんなに慌て——」
「いいから今すぐニュース見ろっ!!」
それにこの焦りよう。何かただならないことが起こっていることは明白である。
イーサンの気迫に押され、ジャスパーが壁に掛けられた大型モニターの電源を入れた。映し出されたのは、国営放送のニュース番組だ。
「っ——!!」
ぱっと目に飛び込んできたテロップに、ジークは言葉を失った。
『ヴェリル商会新代表に、息子のイアン氏が就任』
思考が一瞬停止し、白い字面が波打つようにぐにゃりと歪んだ。
画面の中央に収まっているのは、一人の竜人男性。多数の報道陣を前に会見する彼は、少しも動じることなく、記者からの質問にも淡々と応じていた。
幼い時分に数回しか顔を合わせたことはないが、彼で間違いない。
漆黒の長い前髪からうっすらと覗く漆黒の瞳。歳を重ねたその容貌は、まさしく父親譲りだ。
イアン・ヴェリル——出生時の名は、イアン・リヴド。
会見の内容は、実に驚くべきものだった。
彼は、言い淀む素振りなど微塵も見せることなく、はっきりと述べた。「心身に異常をきたし、重大な事件を起こしてしまった父に経営者としての資格はない。父に成り代わり、今後は自分が会社を率いてゆく」と。……認めたのだ。ハロルドを銃撃したのが、ヴェリル男爵であることを。
それだけでも十分衝撃的だった。だが、さらにイアンは、舌も引かぬうちにこう続けた。
「今回の件に関し、我が社は、捜査機関に全面的に協力いたします」
この言葉が意味するのは、必要に応じ、ヴェリル男爵の身柄を警察に引き渡すということだ。その語調には、躊躇など寸分も存在しなかった。
イアンは、自身の養父をあっさりと切り捨てたのである。
およそ十五分程度の短い会見。椅子から立ち上がり、報道陣に深々と頭を下げると、イアンは会見場から颯爽と出て行った。
やけに自信に満ちた、あの眼の見つめる先には、いったい何があるというのだろうか。
「……ヴェリルの息子の顔、初めて見たぜ」
視線を画面に固定したまま、イーサンが呟いた。その声音には、少なからず不快感が包含されている。
「彼、リヴド伯爵の実子ですよ」
「……はっ?」
眉を顰めて自身のほうへと顔を向ける先輩に対し、ジークは部下からの報告を一言半句違わず伝えた。
にわかには信じがたいといった様子のイーサンだったが、しばらくした後、豪快に一つ溜息を吐くと、得心したような表情をして見せた。
「もしかして、ここまでヤツの筋書きどおりだったってわけか?」
「……」
イーサンの問いかけに、ジークは否定も肯定もしなかった。しかしながら、イーサンのこれは、もはや穿った見方でもなんでもない。
じわりじわりと、まるで炙り出すように浮かび上がった構図。
ヴェリル男爵家を、リヴド伯爵家が取り込み、呑み込む構図だ。
「まあでも、息子がこんだけ大々的に会見やったからには、今日中に警察もなんらかのアクション起こさねぇとな」
それはすなわちヴェリル男爵の逮捕。
やむを得なかったとはいえ、警察が今まで貴族の犯してきた犯罪に目を瞑ってきたことは事実だ。おそらく、貴族を逮捕したという前例は皆無だろう。
犯罪を取り締まる権限は、主に警察が有している。しかし、いくら息子が晒したとはいえ、はたして彼らに男爵を逮捕することなどできるのか。
流れる沈黙。
ほどなくして、この沈黙を打破したのは、
「彼の身柄の拘束には……私が同行を」
両の金眼に、堅固な決意を宿したジークだった。
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