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クリソプレーズに贈る讃歌(2)
美しい満月だ。
不気味なほどに美しく冴え返ったそれは、まるで何かの終演を待ち侘びているかのように恐ろしく冷たい。
あれからジークは上に掛け合い、渋る警察を説得して、なんとか彼らとの合同捜査に漕ぎ着けた。あくまでも捜査の主権は警察に帰属する、との確約を交わして。
要は、仮にこの逮捕劇が上手くいった場合、それを警察の手柄として扱わせてほしい——ということである。
ジークはこれを迷うことなく了承した。迷う時間もなければ、もはやそんなことなどどうでもよかった。
ハロルドの襲撃事件を含む、ヴェリル男爵が関与したすべての事柄を明らかにすること。肝心なのはそれだけだ。
しかしながら、即席とはいえ、やはり人員には気を配らなければならない。
話し合いの結果、軍からはジークの部隊より彼とジャスパーを含む五名が、警察からは捜査員十名と有事の際の医療班三名が、それぞれ現場へ派遣されることとなった。
留意すべきは、罪を認めたのが男爵本人ではなく、息子のイアンだということだ。被害者であるハロルドの目撃証言は存するものの、現行採れる手段は任意同行を求めるにとどまる。
午後八時。
短時間で可能な限り綿密な計画を立て、合同チームは男爵がいるという古い邸宅へと向かった。警察曰く、この情報源は、ほかの誰でもないイアンだとのこと。
鬱蒼と針葉樹が生い茂る林。その中に、それはひっそりと佇んでいた。
爵位を取得したばかりの男爵が、かつて生活していたという屋敷。今では別宅という位置づけだが、ここ最近、男爵はずっとこちらで過ごしているらしい。本宅のほうへは一切足を踏み入れていないそうだ。
月光が、辺り一帯をくまなく照らす。かすかに気配がするため、誰か人がいることは間違いない。だが、蒼白く浮かび上がった館には、どの部屋にも明かりひとつ灯ってはいなかった。
まず最初に彼らの前に立ちはだかったのは、ロートアイアンの自動開閉式門扉。四方はぐるりと塀で囲まれ、外部からの侵入を防いでいる。
彼らにとって——とくに軍人にとって——敷地及び建物内部への突入など容易いことだ。けれど、その方法で押し切ることは適切ではないし、得策でもない。
おそらく相手は武器を所持している。不用意に刺激し、無用な血を流したくはない。
「では、準備はよろしいかな?」
蒼い光にほうっと照らされた白い息。その主である一人の捜査官が、門柱に備え付けられている呼び鈴に手を伸ばした。
恰幅のいい、ちょび髭が特徴的な竜人男性。彼は、この捜査の責任者である警部だ。
彼の呼びかけに一同は頷き、屋敷を取り囲むように各々配置へとついた。中に入るのは、警部を含む捜査官三名と、ジークとジャスパーの、計五名である。
リンゴーン——
重厚なベルの音が、暗い静寂の中を縦横無尽に駆け抜けた。
一同に緊張が走る。
「……」
——応答がない。間を置いてもう一度試みるも、やはり静まり返っている。
息子があの会見を開いたことで、自身のもとへ警察が来ることは男爵も予測できていたはずだ。
不在を装うのか? はたまた逃亡してしまったのか? 逃亡したとなると、中にいるであろう人物はいったい……。
かくなる上は強行突入——そう一同が歯噛みした、次の瞬間。
ギギ、ギギギ、ギィ——
鼓膜を切り裂くような不快な音を伴い、巨大なフェンスが左右にゆっくりとスライドした。錆びた鉄の臭いが付近を漂う。
不意に開かれた扉。彼らと屋敷の入り口を隔てるものはなくなり、一直線上に結ばれた。
招かれた、らしい。けれども、その真意は不明だ。「罠かもしれない」と息を呑む。
「……外に出てくる気配はありませんね」
「このままでは埒が明きませんな。行きましょう」
ジークと警部は互いに顔を見合わせると、部下たちに合図を出し、敷地の中へと入っていった。ジャスパーと二名の捜査官が二人に続く。
両開きの大きな玄関扉も、施錠はなされていなかった。細心の注意を払いながら、ジークが左の扉を、警部が右の扉を、それぞれ勢いよく開け放つ。
暗い。が、目が慣れてきたことにより、月明かりだけでも視覚的な情報は十分に収集することができる。支障はない。
「クリア(異常なし)!」
「こちらもです!」
一部屋一部屋を入念に調べた部下たちが声を上げる。一階には、人一人どころか、虫一匹すら確認できなかった。
残るは二階部分のみ。
階段を上っている最中、踊り場で見上げた月に、ジークはぞわりと寒気立った。
まるで体内を巡る血液が凍っていくような感覚。これほどまでに月を恐ろしいと思ったのは、生まれて初めてだった。
両の手で握り締めた大剣が、やけに重い。普段は滅多に装備することのないものだ。戦地以外で携えたことはほぼないし、できることなら一振りだってしたくはない。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、皮膚にあたる空気が軋む。
二階に到達すると、階下よりも月の光がさらに蒼く明るく感じられた。
廊下に敷き詰められた絨毯の上に足を置いた瞬間、つっと肌を掠めた何かの気配。
ほとんどの部屋で扉が閉ざされている中、雑然と開扉されている部屋が一つだけあった。
間違いない。その場にいた全員が確信を持った。息を殺し、じりじりと躙り寄る。
部屋の手前でいったん立ち止まった五名。体制を整えようと、目で合図を交わした。
その時。
「私は逃げも隠れもいたしませんよ」
室内から漏れ出た、老いた、されど幅広の太い声。
そこには、満月を背にし、ワイングラス片手に執務机へと腰を凭せ掛ける、ヴェリル男爵の姿があった。
ようやく彼との対峙を果たす。
「やはり貴方がおいでになりましたか。フレイム侯爵」
どうやら、ジークがここへ来ることを、彼は想定していたようだ。
逆光ゆえ、正確な表情を視認することはできないが、声色からは意外にも落ち着いていることが窺える。不可思議なほどに。
「今夜の月は、格別美しい……」
グラスを反時計回りに回しながら、舐るようにこう言った。くっきりと浮揚した紫黒の目玉がぎょろりと動く。
——異様だ。
焦点が定まっていない。瞬きの回数も、極端に少なかった。
「我々にご同行願えますかな。ヴェリル男爵殿」
「建国パーティー以来でしょうか。貴方にお目にかかるのは」
さらに異様なのは、先ほどから、彼はジークにしか意識を傾けてはいないということ。警部の呼びかけにも無反応だ。まるで、今この場には、ジークと自分だけしか存在していないかのように。
「奥方様は大変お美しいですね。さすがはグランテ家のご令嬢だ」
ワインを飲む様子もなく、男爵は口を動かし続けた。顔はジークのほうへと向いている。向いてはいるのだが、その視線が合うことはない。
「……グランテ家」
ぴたり。と、男爵の動きが止まった。
ワイングラスを回す手。焦点の定まらぬ紫黒の瞳。そして……呼吸。
ディアナの実家を口に出したとたん、彼は身体の動きを一切止めてしまった。予測困難かつ奇怪な言動には、気味が悪いと言うほかない。
これにより、場の空気の流れさえも止まってしまった。
「……」
唯一男爵に認識されているだろうジークは、黙ったまま、彼の様子をじっと注視していた。
執務机に凭れ掛かり、足を交差させ、左手でワイングラスを持ち、右手は……。
ハロルドとイアンの言うとおり、彼の心が壊れてしまっていることは、ほぼ間違いない。建国パーティーで顔を合わせたときと比べると、それは明白だ。
すると、ここでふるりと空気が揺れた。
「貴方のお義父上を撃ったのは私です」
突然、傀儡人形のように、カクンッと首を右に倒した男爵。自身の犯した罪をあっさりと認めた。
口は笑っている。けれども、目は微塵も笑っていなかった。
「だから、貴方はここに来た。そうでしょう?」
「……っ」
両手にグッと力を込める。滾る怒りを必死で堪えたジークは、不自然に笑っている男爵の口元をキッと睨み付けた。
その気になれば、彼を床に沈めることなど至極簡単だ。
だが、そうすることはできない。ジークにその権利はないし、なにより解決の糸口を一つ断ち切ることになってしまう。
ヤツへと辿り着く道程が、遠退いてしまう。
「今のは自供、と見なしてよろしいですな。……ルイン・ヴェリル男爵。貴方を、ハロルド・グランテ殺人未遂容疑で逮捕——」
「近寄るなっ!!」
自身のもとへ歩みを進めようとした警部に対し、男爵は声を張り上げた。その右手には、拳銃が握られている。
彼の体の真後ろに置かれてあったとみられるモノ。右手が隠されていたのは、このためだったのだ。
抵抗する男爵に、捜査官三名が同じく拳銃を向ける。ジークとジャスパーも、大剣と長剣をそれぞれ構えざるを得ない状況となってしまった。
やはり、血を流さずに収束することは叶わないのだろうか。
「私はただの金蔓だったんですよ、義兄のね。金を集め、彼に納める。その使い道は、貴方ももうご存知なのでは?」
男爵の雰囲気ががらりと変わった。
真っ直ぐに前を見据えた紫黒の瞳のその先にはジークの金眼。儚い笑みを浮かべたその表情は、以前の男爵のそれへと戻っていた。
体の前に突き出した右手を引っ込めることなく、自分が今の地位にいるのは義兄のおかげなのだと、彼は続けた。断れなかったのだと。
それは、彼がかつて、リヴド伯爵から金銭的な援助を受けていた可能性があることを示唆する発言だった。
「どのみち私は終わりだ。イアンを息子として迎え入れたあの日から……妻と結婚したあの日から、私の人生は破滅へと向かっていた。……私の家は、もうない」
彼の頬を一筋の雫が伝う。それは光の粒となり、落ちて絨毯に染みを作った。
わなわなと震える右手。これでは、一発とて彼らに当てることなどできはしない。しかし、彼が右手の力を緩めることはなかった。
今彼を突き動かしているのは、間違いなく殺意だ。
「私が銃を貴方に向けたところで勝ち目などないことはわかっている」
『外』ではなく『内』に向けられた、純粋な——
「だが、自分の頭に穴を開けるくらいは……」
「っ!? やめ——」
パァンッ——
天高く響いた筒音に掻き消されたジークの叫び。
凍てついた満月が、絨毯の上にどろりと広がった赤錆色の血溜まりを、まるで嗤笑するかのごとく照らしていた。
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