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Chapter2:ジルコンを光に翳せば(1)
ディアナがジークのもとへ嫁いで半年が経った。
以前に比べると口数が多くなり、どこか余所余所しかった態度も軟化した。夫に「もっと甘えてほしい」と言われたあのときから、彼女の心を覆っていた硬い殻が少しずつ剥がれ始めたようだ。
今では、彼女のほうから夫に話しかけることもしばしば。それに伴い、徐々にではあるが、意思の表示や意見の提示なども行えるようになってきた。
夫婦らしく、なってきた。
そんなある日のこと。
ディアナが掃除をしている最中、フレイム邸に一本の電話が鳴り響いた。
白い陶器製のアンティークフォン。縁という縁はゴールドで絵取られ、ところどころに小さなピンクローズが咲いている。
近代的ではなく、あえて古典的な代物を選んだのは、彼女だ。けっしてハイテクノロジーが嫌いというわけではなく、むしろその利便性には好意的である。が、このなんとも言い得ぬ物懐かしい温かさに、彼女は親しみを覚えてしまったのだ。
……誰からだろう? そんなふうに考えを巡らせながら、せかせかと音の鳴るほうへ向かう。
「はい」
モップの柄を壁に立てかけ、急いで出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、
『ディアナ? 私だ』
なんとジークの声。
リビングの大時計に目をやると、時刻は午後二時半を少し回ったところだった。今が彼の休憩時間か否か定かではないが、職場から架電してきていることは間違いない。
「お疲れ様です、ジーク様」
初めてのことに若干戸惑ったが、職務に身を投じる夫を労う。
わざわざ勤務時間中にかけてきたところを察するに、おそらく急ぎの用事だ。だが、夫の用件をあれこれと思案してみるも、当然ながら皆目見当などつかなかった。頭上に疑問符が一つ浮かび上がる。
『何かしていたか? 邪魔をしてしまったなら申し訳ない』
優しさを纏った夫の一言一言に、胸の奥でぽっと灯りがともる。どんな些細なことにも配慮を怠らない彼の美点には、全くもって頭が上がらない。
「いえ、大丈夫です。部屋の掃除をしていましたが、ほとんど終わりましたので。……どうなさいました?」
改めて彼に感服したところで投げかけた質問。……夫の用件とはいったい。
『実は、お前に頼みたいことがあってな』
「……頼みたいこと、ですか?」
夫のこの返答に、思わず復唱して首を傾げる。頭上の疑問符が三つに増えた。
『私の書斎のデスクに置いてある茶封筒。それを持ってきてほしいんだ』
「茶封筒?」
『ああ。出先から本部へ戻る際、いったん帰宅しようと思っていたんだが、時間が取れなくてな。頼めるか?』
ジークの頼みとは、「家に置いてある書類を勤務先まで届けてほしい」というものだった。
機密性の高いものなら、家へ持ち帰って処理したりは絶対にしないので、それほど極秘ではないのだろう。けれど、重要であることにきっと変わりはない。
「わかりました」
それくらいのお使いなら自分にもできる。ディアナは、二つ返事で夫の依頼を引き受けた。
『すまんな。あと一時間ほどで迎えをよこすから、よろしく頼む』
眉を下げて申し訳なさそうに微笑む夫の表情が目に浮かぶ。
「はい。では、後ほど」
そんな彼が通話を切るのを待ってから、自身も受話器を元に戻した。
無意識に緩められた頬。まさか昼間に夫の声が聞けるなど、夢にも思わなかったのだろう。
内容は、取り立ててどうということはない、至極単純な依頼だった。それでも、彼女にとっては、非常に有意義なものだったのだ。
彼の期待に応えたい——静かにそう意気込むと、ディアナは立てかけていたモップを再度手に取り、残りの部分を駆け足で洒掃した。
家事を終え、結んでいた髪をほどきながら一息吐く。時計を確認すると、ジークが指定した時間まで、三十分を切っていた。
それほど華美な嗜好を持ち合わせていないディアナ。白いワンピースのうえに、控えめなライムグリーンのレースカーディガンを羽織る。強い日差しに備えて、つばの広いハットと日傘も、一応用意した。
化粧もそこそこに身支度を整え、夫の書斎へ。
ブラックやダークブラウンといった、シックな色味で統一されたそこは、三方をぐるりと本棚で囲まれている。それらの高さは、天井にまで届くほどだ。
聡明な彼は、言うまでもなく、すべての本棚をびっしりと書物で埋め尽くしている。まるで小さな図書館のようだ。
何度見ても圧巻の一言。これらすべてを、彼は頭の中に知識として蓄えているのだろうか。しかし、仮にそうだとしても、疑う余地などありはしない。
幼い彼女にも、彼の才腕やその英気の高さは、十二分に了知できていた。彼に備わっている能力のほとんどが、天性のものなのだろう。天は二物を与えてしまった。
だが、きっとそれだけではない。身を砕くような、骨を折るような、想像を絶する努力を、彼は自ら買って出たのだ。そうでなければ、たとえ貴族といえども、あの若さで将軍などという高位を任されるはずがない。
この半年、夫のことをずっと傍で見てきた妻は、小さく感嘆した。
そして、本来の目的を遂行するべく、部屋の中程に設置されている執務机へと歩みを寄せる。上品な、けれど、どこか時の流れを感じさせる、ダークオークの机。
この屋敷の家具は、そのほとんどが代々受け継がれているものなのだと、ジークから聞いたことがあった。おそらくこの机も、爵位とともに、彼が父親から受け継いだ大切なものだろう。
綺麗に整頓されたその片隅には、士官学校時代に撮ったと思しき家族の写真と、半年前に撮ったディアナとの結婚式の写真が、並列して飾られていた。
ディアナの蒼い双眼が、フォトフレームのカバーガラスに反射して、ゆらゆらと揺らめいている。
仲睦まじい家族三人の写真。彼の右隣に父親が、左隣に母親が、それぞれ息子に寄り添うように立っている。十年以上前に撮影されたものゆえ、かすかに色褪せてしまってはいるものの、それでも彼らの表情に滲んだ幸せの色彩は、今もまだ息づいている。
書斎の清掃も定期的にディアナが行っているため、嫁いで以来幾度となくこの写真を目にしてきた。そのたび思う。夫は、母親似だと。
「……」
心に温もりを感じるその一方で、もう一枚の写真に覚える罪悪感。
結婚という、人生で最も晴れやかな舞台に立っているはずなのに、写真の中の自分は微塵も笑っていない。
——なんて辛気くさい顔。
自分の目に醜い自分を映すたび、夫に対し、申し訳ない気持ちに苛まれた。
結婚相手を自分で決めることはできない。これは覚悟していた。仕方のないことだと。
父が決めることに抵抗はしない。自分の意思は必要ない。自分はただの傀儡……。
でも、まさか十代で結婚することになろうとは、想像だにしていなかった。
おのれを守るため、何もかも義務だと思うことにした。その結果が、この無機質なドール・フェイスだ。
「……っ」
ハッと我に返り、ふるふるとかぶりを振る。過去を責めたところで、時間は戻ってこない。そんなことよりも大事なことが、今の自分にはある。
意思を持つことを教えてくれた、意見を言う機会を与えてくれた、その夫がこんな自分を頼ってくれている。
大したことではないとわかっている。けれど、ディアナにとって、誰かが——ほかの誰でもないジークが、自分を必要としてくれているという事実が、何より意義のあるものだったのだ。
彼のために、今自分が為すべきこと——その対象を探すべく視線を動かすと、それはすぐ目に留まった。
きちんと封がなされ、机上の中央に丁寧に置かれた、茶色の大きな封筒。
そっと手に取ると、ディアナはこの部屋をあとにした。
過去の自分を悔い改め、未来へと一歩を踏み出すように。
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