167人が本棚に入れています
本棚に追加
ラピスラズリが象る御空(1)
広いホールに響く、紳士淑女の上品な笑い声と、宮廷音楽家の優雅な演奏。
その中央でひときわ存在感を放っているのは、ディアナの身長よりもはるかに大きいであろう、絢爛豪華なシャンデリア。
室内の装飾品から精巧な食器にいたるまで、どこもかしこも眩いばかりに輝いている。
さながら御伽の世界にでも入り込んでいるようだと、ディアナは心の中で嘆声を漏らした。
この日、建国記念パーティーに出席するため、夫婦は揃って登城した。
ディアナにとって、社交界の催し物に出席すること自体初めてではない。とはいえ、これほどまでに大規模で煌びやかなものは、いまだかつて経験がなかった。
「すまんな、ディアナ。煩わしいだろう?」
声の主のほうへと顔を上げる。彼女の隣に立っているのは、申し訳なさそうに笑みをこぼす夫。
軍服は軍服でも、普段着用しているものとは異なり、彼が現在身に纏っているのは、式典などで着用する礼服だ。
目が覚めそうなほど鮮やかなサファイアブルーのロングコート。いつもは黒の手袋も、今日は純白だった。
相も変わらず凛々しい彼だが、その凛々しさによりいっそう磨きがかかっている。思わず恍惚としてしまうほどに。
しかし、ジークはジークで、妻のこの姿にひときわ愛くるしさを覚えていた。
先日購入した例のパールホワイトドレスに身を包み、髪をまとめ上げた今日の彼女からは、幼さなど消散していた。綺麗に施されたメイクと、両耳の白真珠が、麗しさをよけいに際立たせている。
腹部で手を結び、姿勢を崩すことなく佇むその姿は、まさに貴婦人だ。
「いえ、大丈夫です。皆さん、とても丁寧に接してくださいますので」
自分のことをいつも通り気遣ってくれる優しい夫に対し、妻は唇を綻ばせて首を振った。
先ほどから、夫婦のもとへとひっきりなしにやってくる人々。
彼らの目的はただ一つ——貴族界の高嶺の花だと謳われているジークの妻を、間近で拝見することだ。
諸々の要素を一括したうえでの夫の言葉だったのだが。
「それに……」
「?」
ディアナの顔つきが変わった。目元に凜と花を咲かせ、ジークの瞳を真っ直ぐ見据える。
煩わしいとは思わない。だって——
「わたしは、貴方の妻ですから」
——自分は、彼の妻だから。
妻としての義務感は、依然として彼女の中に灯っている。けれど、鋭く尖っていたそれは、淡く柔らかなものへと形を変えた。
ドレスを購入してもらったあの日。ジークが夫婦のあり方について教えてくれたおかげで、彼女が抱いていた『妻』の像は百八十度転換されてしまった。
今、彼と一緒にいるのは、間違いなく彼女自身の意思だ。
彼のことを心の底から慕っている。彼の『妻』であることを、誇りに思えるほどに。
「ですから、大丈夫です」
切り取って貼り付けたような貴族竜人たちの笑顔。それらの裏側に隠された思惑に、ディアナは気づいていた。彼らに対する受け答えや一つ一つの所作、その細やかなところまで自分は試されていたのだ。
彼に相応しくありたいと、背筋を伸ばし、胸を張る。
下を向いてなどいられない。
「……お前と結婚することができて、本当に良かった」
ディアナの言葉に感銘を受けたジークがぽつりと呟く。まるで、妻に対する自身の想いを確かめ、噛み締めるように。
自分と結婚することができて幸せだと、妻は言ってくれた。けれど、それは自分にとっても言えること。この小さな体にどれほど支えられているか……そう考えるだけで、胸がいっぱいになった。
愛敬の眼差しと笑みを互いに交わす。そこに在るのは、紛れもなく『フレイム夫妻』だった。
「これはこれは、フレイム侯爵」
突として耳に入った、重く太い低音。二人の前に姿を現したのは、中年の竜人男性だった。
項が隠れるほどまで伸ばした白髪交じりの黒髪に、手入れされた顎鬚。右目には、黒地に金色の唐草模様が施された眼帯を装着している。
足元まである青藍の豪華なロングマントは、金糸の刺繍で飾られたブロケードの生地が使用されていた。
身長はジークよりも少しだけ劣るが、マントの上からでも、年の割に引き締まった体躯であることが窺える。
「……ご無沙汰しています、リヴド伯爵」
その男性に挨拶したジークの表情がわずかに険しくなったのを、ディアナは見逃さなかった。明らかに男性から遠ざけるように、妻を自身の半歩後ろに下がらせる。
どうやら好ましい相手ではないらしいが、それにしても、普段温厚なジークが嫌悪感を顕わにするなど珍しい。
場の空気が微かに澱む。
男性の名は、ハンス・リヴド。この国の伯爵にして、貴族院の議員だ。
この国の議会は二院制で、貴族院と衆議院とで構成されている。貴族院議員は、文字通り貴族の中から選出され、衆議院議員は庶民の中から選挙によって公選される。
しかし、それらの中にヒトは一人も存在しない。現状、議会は、竜人により運営されているのだ。
「そちらが奥方様ですか。噂通り、大変お美しい」
ゆっくりとした穏やかな口調で、細めた左目をディアナに向ける。
「……っ」
うっすらと覗いたその黒目に、ディアナは背筋が凍てつくのを感じた。
彼は笑ってなどいない。彼の心裏に渦巻くのは、先ほどの貴族竜人たちとは比べものにならないほどの禍々しい黒闇。ディアナは、それを直感的に悟った。
無意識に、肩に力が入る。
「確か……グランテ家でしたな。貴女の御実家は」
「……はい」
武骨な右手で顎髭を撫でながら、ディアナを見下ろす。上辺だけ取り繕ったような、冷たく嫌な目つき。
本当は視線を合わせることすら憚られた。だが、夫の立場を考慮すると、同じ貴族相手に粗相があってはならない。
それに、彼からは……彼からだけは、けっして目を逸らしてはいけない——そう感取したディアナは、勇気を奮い起こし、彼を直視し続けた。
「過去に不運な出来事があったというのに、御家を守り続け、立派に繁栄させておられる父君には頭が下がるというもの」
「……」
明言することは避けたが、彼の言う『不運な出来事』とは、ディアナの実母が亡くなったことを指しているのだろう。
とはいえ、母に対する慰藉も、父に対する敬意も、彼の言葉からは何一つ感じられなかった。
ディアナの生家であるグランテ家は、代々造船業を生業として栄えた家だ。品質・デザインともに優良で、他社の追随を許さず、国内のシェアはナンバーワン。近年では、他国への輸出も盛んに行われている。
なおも発展を続けるグランテ家。その当主であるディアナの父は、経済界においても、また産業界においても、今や一目置かれる存在なのだ。
「貴女が侯爵のもとへ嫁がれたことを、父君はもとより、母君も大層喜んでおられるでしょうな」
「……ええ」
体の前で結んでいた手を、ぐっと握り締める。おそらく『母』とは、義母ではなく、亡くなった母親のこと。できることなら、母親のことは口にしてほしくなかった。聞きたくなかった。
あの日の出来事を……あの時の場景を、思い出してしまうから——。
それだけで十分だった。傷心したディアナの胸奥を抉るには。
「では、私はこれにて失礼いたします」
だが、伯爵が去り際に放った言葉により、彼女はさらに追い打ちを掛けられることとなる。
「それにしても、本当にお美しい。……お二人の間には、さぞかし聡明で麗しいお子様が誕生されるでしょうな」
「……っ!」
そう言い残し、伯爵は二人のもとから立ち去った。不敵な笑みを浮かべて。
マントを翻した際、漂ってきたきついコロンの香りが、やけにディアナの鼻につんと沁みた。
「……」
鼻の奥が痛い。
匂いのせいなのか、それともあの発言のせいなのか、もはやそれすらわからない。それすらわからないほどに、ディアナはひどく動揺してしまっていた。張っていた肩と肘を落として俯く。
そんな妻に、夫が優しく声をかけた。
「大丈夫だ、ディアナ。気にするな」
微かに震える体を支えるように、彼女の背中にそっと片腕を回す。
「申し、訳……っ……」
謝罪を口にしようとするも、喉につかえて上手く言葉にできない。呼吸をすることさえままならなかった。
夫の顔をちゃんと見たいのに、沈めた頭を上げられない。
ディアナは、いまだジークを受け容れられずにいた。
ジークには『妻』だと言っておきながら、貴族の家に嫁いでいながら、その役割を自分は十分に果たせていない。
彼との間に子どもを授かること——これは、ディアナ自身も切に望んでいることだ。
亡くなった母のように、優しくしなやかな母親になりたい。母と自分のような関係を、我が子と築きたい。ともに過ごした時間は短かったけれど、母が自分に与えてくれたものは、どれも大切な宝物だから。
でも、そのためには、彼を受け容れなければならない。
夫婦ならば然るべき行為に踏み込む『覚悟』と『準備』が、今のディアナにはまだ整っていなかった。あまりの不甲斐なさに、下唇をきゅっと噛む。
けれどもジークは、そんな妻の心情をちゃんと汲んでいた。
「謝らなくていいし、謝ることじゃない。……私たちのペースでいいんだ」
妻の複雑な心中を慮り、彼女の背中に添えた手に力を込める。
焦らすつもりはない。周囲の目なんて関係ない。とくに、あの男の戯れ言など。
急いて家を繋ぐことよりも大切なことがある。それは、愛する妻の体と心。夫婦が互いに尊重し合い、思いやりを持って時を紡いでいけば、家はあとからついてくる——そう、ジークは信じていた。
人目につかぬよう、妻の潤んだ目元をそっと拭ってやる。すると、夫の想いで胸が満たされた妻は、躊躇いながらもこくりと頷いた。
「ありがとうございます、ジーク様。……すみませんでした。もう、大丈夫です」
妻が落ち着きを取り戻したことに、ジークはとりあえずほっと胸を撫で下ろす。
しかし、それもつかの間。
今このタイミングでディアナに伝えるべきだと、ジークは思い定めた。口にするのも厭わしいゆえ、あまり気は進まないが、妻のことを考えるとそうも言っていられない。
「……ディアナ」
「? ……はい」
突如声のトーンを落としたジークに、ディアナはほんの少し目を丸くした。
彼女にしか聞こえないほどの静かな声音で、ジークが囁く。
「彼には……リヴド伯爵には気をつけろ」
「え……?」
「貴族だが、黒い噂の耐えん人物でな。何を企んでいるかわからん。公言はしていないが、反皇帝派の中心人物だ。……これから事あるごとに同席することになるだろうが、挨拶も社交辞令程度で構わない」
「……わかり、ました……」
暗に「伯爵には近づくな」と言っているのだろう。
突然の夫の発言に、若干戸惑いながらもディアナは首肯した。なんとも表しがたいおぞましさに、戦慄が走る。
不穏な足音が、黒い影とともに、二人のもとへと近づいていた。
最初のコメントを投稿しよう!