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ラピスラズリが象る御空(2)
ドンッという鈍く大きな音。周囲から聞こえた悲痛な叫び声。
奪われた手のひら。
動かない肉叢。真っ白な雪。
真っ赤な——
——血。
「——っ!!」
激しい息苦しさに襲われて目を覚ますと、ディアナはベッドから勢いよく上半身を跳ね起こした。
必死で酸素を欲するように、「はあ、はあ……っ」と、肩で息をする。
頭が割れそうなほど体の内側で大きく脈打つ鼓動。額や首筋に髪の毛が張りつき、シルクワンピースの寝間着も濡れてしまっていた。
広い寝室には、カーテンの隙間から、青白く澄んだ月明かりが差し込んでいる。外はかなりの晴天らしい。
そのおかげで、消灯してはいたものの、壁の掛け時計を確認することができた。
時刻は午前三時。
「……、……」
呼吸をする間隔がしだいに長くなる。脈拍もようやく収まってきたところで、ディアナは静かに溜息を吐いた。
「……ディアナ?」
そのとき、隣で寝ていたジークに声をかけられた。心配そうな声遣い。
妻のただならない様子を感じ取り、目が覚めた夫は、自身も上半身を起こすと、ベッドサイドランプを点灯した。
淡く落ち着いたサンセットカラーが夫婦を照らす。
「も、申し訳ありません。こんな夜中に起こしてしまって……」
「いや、気にするな。……すごい汗だな。ちょっと待っててくれ。今、タオルと水を持ってくる」
一目でわかるほどの多量の流汗。
驚いたジークは、妻にそう言ってベッドから降りると、寝室をあとにした。
「……」
ベッドに一人残されたディアナ。
夫の眠りを妨げてしまったことに対する罪悪感に苛まれるも、彼女の脳裏には、今しがた夢に見た場景の一部始終が克明に蘇っていた。
あまりにもつらく、あまりにも苦しい夢。しかし、それは夢であると同時に彼女の記憶でもある。
「……っ……!」
膝を立て、布団越しに顔を沈める。……声にならない声とともに。
薄手の羽毛布団からは、優しい夫の匂いがした。
それから数分後。
コットンタオルとコップ一杯の水を持って、ジークが戻ってきた。
「大丈夫か? とりあえず水を」
ジークは、ベッドサイドに腰掛けると、まずは水を飲むよう妻に促した。
「すみません。ありがとうございます」
夫からコップを受け取り、ゆっくりと口に水を含む。こくこくと喉を鳴らして体内を潤した。
すうっと、気怠さが抜けていくように、しだいに体が軽くなるのを感じる。彼女が自覚していた以上に、彼女の体は水分を求めていたようだ。
そして、一番発汗量がひどかった首周りをタオルで拭って一息吐くと、これ以上彼に心配をかけないよう気丈に振る舞った。
「あ、あの……ありがとうございました。もう、大丈夫ですので」
心なしか声が震えている。
さきほどより落ち着きを取り戻してはいるものの、明らかに大丈夫などではない。夫から見て、それは一目瞭然だった。
「本当か? 必要なら、もう一杯水を持ってくるぞ」
「いえ、大丈夫です」
それなのに、妻はこう言う。そんなこと、あるはずないのに。
「……大丈夫ですから、ジーク様はどうかお休みになって——」
そんなこと——
「……っ、こんな状態のお前を放っておけるわけないだろう……!!」
——聞き入れられるはずがない。
室内にジークの声が響き渡った。叫びにも似た大きな声。それと同時に、ディアナの背中にほんの少しの痛みが走る。
妻は、夫によって強く抱き締められていた。
思わず目を見開いたディアナだったが、彼女の目は夫の胸で塞がれていたため、明かりを感じることすらできなかった。
温厚で沈着冷静なジークが声を荒げるなど、滅多にないことだ。ともすれば、結婚して以来初めてかもしれない。触れ合った部分から、夫の気持ちがひしひしと伝わってくる。
彼に心配をかけまいと取った行動が、かえって彼を苦しめる結果となってしまっていた。彼のことを考えるなら、きちんと口にするベきだったと、ディアナは反省した。
自身の腕をそっとジークの背中に回す。しばらく彼に身を委ねていたが、心を固めると、重たい唇をゆっくりとこじ開けた。
「……夢を、見ました」
「夢?」
こう聞き返した夫の腕が少しだけ緩む。
ここで、ディアナは夫の背中に回していた腕を解くと、顔を上げて視線を合わせた。一度だけこくりと頷き、再度覚悟を決める。
そして、静かに語り始めた。
「母が、亡くなったときの、夢を……」
自身にまつわる、あの忌まわしい過去の出来事を——。
「先日……ドレスを買ってくださった日の帰り……あの事故現場を見て、ジーク様おっしゃいましたよね。『三人が亡くなった』って……」
「え? あ、ああ……」
「そのうちの一人は……わたしの、母なんです」
「!?」
今から十三年前、石碑が建てられているちょうどあの場所で、ディアナの母親は亡くなった。
車に撥ねられて。
「あの日は、雪が降ってて、とても寒くて……」
普段忙しくて外出もままならなかった母親。そんな母親との貴重な時間を街で過ごした、その帰りの出来事だった。
「わたしと母は、手を繋いで、歩いていました。その途中……」
なんの躊躇いもなく、歩道に突っ込んできた一台のワゴン車。
母親は、幼いディアナの体を思いきり引き寄せると、自身が車道側へと駆け出した。ほんの一瞬のことだった。
冷たい雪の感触と、母親の体から流れ出た血の生温かさを、ディアナは今でもはっきりと覚えている。
幸せな日常が、一気に地獄と化した瞬間。泣き叫び、必死に呼びかけたけれど、母親が目を覚ますことはなかった。
「事故を起こしたのは、当時、政府の広報誌を配布して回っていた竜人の男性でした」
哀しみと絶望に滲んだ瞳で、ディアナはしかと見ていた。自分が引き起こした惨事を直視することなく、そのまま現場から逃げ去った、若い竜人男性を。
飲酒運転だったと聞いた。まだ未成年だったと聞いた。
けれども、彼は何の罪にも問われなかった。
警察には捕まったと聞いた。非公開だが裁判も行われたと聞いた。
それなのに……。
「今考えると、本当に裁判が行われたのかさえも、疑わしいです」
母親が荼毘に付され、手元に戻ってきたものは、骨壺とパールのピアス一粒だけ。対のピアスは、車にぶつかった衝撃で破損してしまった。
ディアナが肌身離さず、ずっと左耳に付けていたピアスは、母親の形見だったのだ。
だが、ディアナの悲劇は、これで終わりではなかった。
「……それ以来、父はわたしのことを避けるようになりました。母が轢かれたのは、わたしのせいだと言わんばかりに」
「……」
直接責められたわけではないし、言葉にされたわけでもない。けれど、あの日を境に父の態度が一変したことは明白だった。
自分のせいで、母親が死んだ。
突きつけられた事柄に、まだ五歳だったディアナの心は、ずたずたに劈かれた。
心の奥深くに閉じ込めていた哀傷と苦衷。これらを初めて口に出したことで、今まで抑え込んでいたディアナの感情は、一気に爆発した。
「……あのとき、死ぬはずだったのは、母じゃなくて、わたしだったんです。本当は、わたしが……っ」
「それは違うっ!!」
しかし、ディアナの悲痛な嘆声に被せるように、ジークが声を張り上げた。もう一度、妻の華奢な身体をぎゅっと抱き締める。
今度は、さきほどよりも、さらにきつく。
「お前のせいじゃない、ディアナ。母上が亡くなったのは、お前のせいなんかじゃない。……だからもう、自分を責めるのはやめろ」
「……っ——!!」
夫の肩越しにオレンジ色の光がぼやけ、頬が濡れていくのを感じた。身体が、心が……震える。
ずっと抱え込んでいた。誰にも打ち明けることなく、たった一人で。それは、長い年月を重ね、彼女の中で硬く冷たい氷塊となった。
溶けることなどないと思っていた。溶かしてはいけないと、思っていた。
だが今、ジークの温かいこの言葉により、あれほど大きかった塊が、瞬く間に溶けてなくなってしまったのだ。
彼の胸に顔を埋める。
結婚して以来初めて、否、母が亡くなったあのとき以来初めて。
ディアナは、声をあげて泣き叫んだ。
◆
妻が泣き止むまで、夫は黙ったまま、ずっと彼女を抱き締めていた。ときに頭を撫で、ときに背中を擦ったりしながら。
それから、涙で胸元を濡らしてしまったことを慌てて謝罪する妻に対し、いつものように「気にするな」と微笑むと、いまだ乾き切らないその目元にキスを落とした。
ディアナの過去にひどく心は痛んだけれど、それでも、彼女が自分に心中を打ち明け、感情を顕わにしてくれたことが、ジークは何よりも嬉しかったのだ。
……だがしかし、それと同時に、彼の中にある懸念が生まれてしまった。
「……ジーク様?」
突然曇った夫の表情に、ディアナが不安そうな面持ちで声をかける。
そんな妻に、目を伏せた夫は、躊躇いがちに口を開いた。
「……憎くはないのか? 竜人が」
絞り出すような鈍色の声。その一音一音には、憂いや虞、そして咎といった、負の色が付着していた。
わずか五歳で母親と死別し、父親との関係まで潰えてしまったディアナ。彼女をこれほどまでに不条理な事態へと追いやったのは、紛れもなく竜人だ。
彼女が竜人に対し、怒りや憎しみを抱いていたとしても仕方がない。むしろ、ある意味それは必然なのかもしれない。
今までディアナの過去を知らなかったとはいえ、ジークは罪の意識を拭い去ることができなかった。
けれども、ふるふるとかぶりを振ったディアナから返ってきたのは、ジークにとって予想外の言葉だった。
「ヒトの中にだって、悪い人はいます。種族は、関係ありません」
予想外に、優渥な言葉。
これにより、彼の心の琴線は大きく弾かれ、その瞬間、大切に仕舞っておいたある記憶が鮮やかに彩られた。
「……やはり、お前は私が思ったとおりのヒトだった」
「……?」
夫の言葉にまったく心当たりがない妻は、キョトンとして首を傾げる。
一方の夫は、何かを懐かしむように柔らかな眼差しを妻に向けると、一呼吸置き、今度は自身が過去について語り始めた。
「私は、以前からお前のことを知っていた」
「えっ……?」
彼の口から紡がれたのは、彼にとって、かけがえのない大切な記憶。
「お前は覚えてないかもしれんが……」
それは、今から五年ほど前。ジークが爵位を継承して、まだ間もないときのことだった。
現皇帝が提唱した『ヒトとの共栄』という施策を受け、諸々の分野で法律が改正されるとともに、あらゆる場面でシステムが大幅に再構築されることとなった。
これらを浸透させるための人材として、軍の中からも、ジークをはじめとする数十名が、皇帝によって直接選ばれた。
「陛下の勅命ゆえ、諦めるわけにはいかなかった。それに、諦めたくもなかった。……だが、現実を目の当たりにして、皆の志気が一気に下がってしまってな」
国内を東奔西走する日々。
提唱してから、そのときすでに五年が経過していたが、数千年ものあいだ続いたヒトと竜人の関係をつり合わせることは、やはり容易ではなかった。竜人はもちろん、ヒトの側にも、確立された互いの優越関係を崩すことに抵抗があったのだ。
もちろん、多くのヒトが、当時の現状を『理不尽』だと嘆いていた。だが、いくら国の体制が変わったとはいえ、表立って声をあげるには、まだ時間が不十分だった。
双方の反応を想定していなかったわけではない。けれど、現実は想像以上に厳しかった。
見通しの立たない状況に心身ともに疲弊した。そんな折、遠征より帰還し、久々にこの屋敷で夜を過ごそうと家路を歩いていた。その途中。
一人の少女が、彼の目に留まった。
少女は、地面に這いつくばるようにして何かを探していた。長い金糸の髪が歩道に流れることも顧みず、ただひたすら懸命に。
彼女の隣には、膝に怪我を負った初老の竜人女性の姿。女性もまた、不安そうな面持ちで、辺り一帯をくまなく探していた。
しばらくすると、少女があるものを見つけた。それは、シルバーリング。彼女が女性に手渡すと、女性は目に涙を浮かべながら、自身の左手の薬指にそれをはめた。
どうやら、転んだ拍子に結婚指輪を落としてしまったらしい。
歳を取り、指が痩せてサイズが合わなくなってしまったけれど、どうしてもこの指から外したくないのだと、女性は言う。亡くなった夫との、大切な繋がりだからと。
別れ際、フレアスカートの裾から覗く膝の傷に、少女は自身のハンカチを丁寧に巻きつけた。「お気をつけて」——そう挨拶した少女に対し、竜人女性は何度も振り返り、何度も頭を下げながら、帰っていった。
「あ……」
思い出した。
確か、あのあとすぐに継母がやってきて、洋服を汚したことをひどく咎められたが、理由は話さなかった。べつに特別なことをしたとは思っていなかったし、話せばよけいに憤慨することはわかっていたから。まさか、その一部始終をジークが見ていたとは、夢にも思わなかったが。
ここで、ジークがそっとディアナの頬に手を添えた。煌めく妻の双眸を真っ直ぐに捉え、こう告げる。
「なんて綺麗な心を持った少女なんだろうと思った。お前のその姿を見て、私は勇気をもらった。……この国が、世界が、進む方向は間違っていない。そう確信した」
以来、名前も知らない少女のことが、片時も頭から離れなかった。小さな彼女の存在が、彼の大きな心の糧となった。
崩れかけていたジークを救ったのは、他ならぬディアナだったのだ。
「お前には感謝している。本当に」
「ジーク様……」
夫のこの言葉に、ディアナの目頭がまた熱くなった。いまだかつて経験したことのない感情の昂りに、顔だけではなく、全身が熱を帯びていく。
無数に散らばる星屑の中で、彼が自分を見つけてくれたこと。彼と自分が、結ばれたこと。
すべてが、彼女にとっての『奇跡』だった。
「……では、そろそろ休むか? お前が寝つくまで、私は起き——」
突如、沈黙が漂った。
とっさのことに目を見開いたジークの眼前には、ディアナの顔が。
鼻と鼻が触れ合うよりも、さらに近い距離。妻の唇が自身のそれを塞ぎ、言葉を遮られたのだと気づくまでに、少々時間を要してしまった。
「ディア、ナ……?」
戸惑う彼に、揺れるような細い声で、彼女が言う。
「……わたしを、貴方の『妻』に……してください」
「!」
正真正銘、ディアナはジークの『妻』だ。この事実に疑う余地など微塵もありはしない。
けれど、今彼女が口にしているのは、そんな表面的なものではなく、もっと深奥に存在する核の部分。
ディアナの真意を瞬時に理解したジークは、驚きながらもそれに応えた。
「……いいのか?」
これに対し、彼女は頷き、承諾の意を示す。
次の瞬間、今度は啄むような甘い口づけが、彼のほうから彼女に贈られた。
「愛しています、ジーク様……」
あれほど身構えていたことがまるで嘘みたいに、不思議と緊張もしなければ、羞恥心さえ、さほど感じなかった。
『覚悟』なんて必要なかった。
『準備』なんて、意識せずとも自然にできるものなのだ。
この夜、ディアナは初めてジークを受け容れた。
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