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「ねぇママ、今日からここで暮らすの?」
科学者のレイチェル・チャンは息子の手をきゅっと握りしめた。エレベーターでどのくらい地下に潜ったのか……今となってはわからない。地上から乗ったエレベーターが地下のその入り口に着くまでは、ゆうに5分はあったはずだ。
「そうよ、ダニエル。今日からはここが私たちの住む場所になるの」
レイチェルはダニエルに微笑んだ。右手でカートを引き、左手でダニエルの手を握る。レイチェルのしているペンダントトップはロケット式になっていて、中には亡き夫…ジャックの写真が収まっている。
大丈夫。ここで病気の原因を調べて、薬を作って。世界中のシェルターと連絡を取り合って、研究結果をシェアすれば必ず治療法が見つかるわ…レイチェルは自分を奮い立たせた。
まだ幼い息子は、どこまで事情を飲み込めているだろうか。12歳、まだ12歳。平均的な体格に、天才と言われたその頭脳。思慮深く、大人のような発言をしては同じく科学者であった父、ジャックと対等に意見を交わすこともあった…そのジャックは、もういない。
レイチェルたちがいるこの疾病対策センターは、ヨーロッパの一部の人たちを中心に収納されている。発病したものは誰一人いない。性別や年齢に差はあれど、みな「健康」であること、ウィルスを持っていないことが条件だった。
世界各地の核シェルターを改造して作られた疾病対策センターでは、毎日健康チェックを行う。体温、脈拍、血圧を測り、検尿も毎日行われる。
そういった作業は全て、アンドロイドが行なっている。このセンターではおよそ50人の健康な人間、そしてアンドロイドが30体稼働している。
50人、と思ったときにレイチェルの顔が曇った。いったいどうして、人類がこんなにもたやすくウィルスに倒れてしまったのか。
いや、それは過去を鑑みればありえる事態ではあったのだ。ペスト、そしてスペイン風邪、COVID-19……と、定期的に菌やウィルスは人間の命をたやすく奪う。
今回のウィルスに感染すると、最初の一週間は微熱が出て食欲不振になる。そして鼻水、咳…といった、風邪の初期症状が出始め、その後それらの症状が改善する。当然罹患者は治った、と思って職場や学校に出かけ、そこでウィルスを撒き散らしてしまう。
その後、再びの微熱と食欲不振、そして全身の倦怠感。この症状が出始めて3日もすると、眠っている間に自然に呼吸が止まり、罹患者は死亡する。
だから誰も気がつかなかった。そしてあっという間に世界に蔓延した。特に、とレイチェルは回想した。都市部はひどかった…と。
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