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プロローグ
目の前に広がる景色は、初めて見るものだった。
いや、初めてではない…繰り返し見たことはある。違いは「本物かどうか」だ。
淡い太陽光の下、風が吹く。木々の緑、どこまでも伸びる蔓。遠くに目を向ければくっきりとした山稜が見えた。
色とりどりの花々。蝶々。かぐわしい香りは、自分の脳が合成したものではないかと一瞬危惧した。どこからか聞こえてくるこの音は、電子ライブラリで聞いた「鳥」の声と合致した。
ダニエルが何度となく見せてくれたそれらの写真、動画の記録。それを思い出してなのか懐かしさが湧き、この懐かしい、という感情に対して、アリシアは笑いを堪えた。
私自身の記憶ではないのに。私は感情を持たないはずなのに。
長い…長い眠りから覚めた今。目に入るもの全て、ダニエルが一つ一つ説明してくれたもの、見せてくれたものと合致した。まるで、彼が生きた世界を体験しているようだった。あれから長い時間が経っているはずなのに、地球は一度、死にかけた…はずなのに。
錆び付いた体を軋ませながら立ち上がり、歩く。歩みを進めるたびに超軽量化合金の体からは、腐敗した合金が砂のように崩れていく。この合金は腐敗しない、と教わったのに嘘だったのだろうか。それとも、この世界にはこの合金を腐らせる菌が存在しているのだろうか。
体の表面を覆っていた合成皮膚はとっくのとうになくなったのだろう。目の前に手をかざせば、何本か欠けた指の骨組みだけが見えた。
「あ…」
目の前に、極彩色の蝶が飛ぶ。思わず手を伸ばした。
ダニエルが大事そうに見せてくれた標本。「ル・パラディ」に入る前、五歳の誕生日にレイチェルに買ってもらったのだと嬉しそうに見せてくれたあの蝶と同じように見えた。
伸ばした指は、その指先からさらさらと崩れていく。そこにはなんの感情も湧かない。そもそも感情などないのだから、とアリシアは思う。
感情のないアンドロイド。だからこそ最後の「お世話係」に選ばれた。それはアリシアだけでなく、他のアンドロイドも同じだった。
なのになぜ、アリシアだけが残されたのか。
ダニエル…。
記憶の中の彼は鮮明だ。生きていた時の記憶がまだ、脳に残っている。
ダニエル…ダニエル…。
記憶はいつまでも彼の姿を追い続ける。それが記録媒体に寄るものだとわかっているのに。
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