ついていない一日と、小さな優しさに

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 最悪な日って言うのはあるものだ。  終電に乗り継ぐための電車が遅延して、自宅の最寄り駅まで行く電車がなくなった。 「うわ、マジかよ。ホテル見つかるかな……」 「あ、お父さん? うん、もう最悪。電車終わっちゃってんの。車出せる?」  自分と同じ境遇の人もちらほらと居て、不機嫌そうに顔をゆがめながらも、それぞれに自分たちなりの対応を取る。  私は、そんな様子をただぼんやりと見ていた。  思えば朝からひどい一日だった。  朝食のお皿をひっくり返し、それを片付けていたら電車に乗り遅れた。  仕事では自分は全く悪くないのに相手の勘違いで怒られた。  気分を変えようと買いに行ったお気に入りのチーズケーキが売り切れていた。  そして、極めつけは3年付き合った恋人にふられた。  思ったほどショックを受けなかったのは、なんとなく覚悟ができていたからだろうか。  ただ、付き合い始めた当初、あれほど熱く愛を語っていた彼の姿を思い出すと、人の気持ちは不変ではいられないのだと、そう思い知らされるようで。  それが、なんだかとてもさびしかった。  気分が落ち始めてきたのを感じて、ふぅっと大きく息をついた。 それだけで、なんだか少し気持ちを落ち着かせることができる。  いつからだろう。辛いことがあっても泣かなくなったのは。  仕方ない、こんなことだってあるさ、と何でもないことのように流すことができるようになったのは。  泣いたって何も変わらない。  泣いたって誰も助けてくれない。  そんな当たり前のことを遅まきながら気づいた20代前半の頃だっただろうか。  さぁ、私もいつまでも呆けていないで家に帰るか。  取りとめもない考えを打ち切って、タクシーでも拾おうと大通りに向かって歩き出す。  念のためタクシー会社の電話番号も調べておこうか、とバッグから携帯を取り出して検索サイトにアクセスする。  しばらく歩いたところで、 「あの、すみません」  突然後ろから声をかけられた。 驚いて後ろを振り向くと、私を走って追いかけてきたのか、少し息を切らせた若い男性の姿があった。  見覚えのある人物ではなく、以前変な絡まれ方をしたことがある私はつい身構えてしまった。けれど、気づいてもらえてよかった、と安堵の笑みを浮かべる彼のその表情は、とてもあどけなくて警戒心を和らげる。 「これ、落としませんでしたか?」  そう言って私に見せたのは、薄黄色の生地に小さな青い刺繍の入ったハンカチだった。 「あ、それ……確かに私のだ」 暗くて分かりにくかったが、愛用のハンカチだったので気付くことができた。先ほど携帯を取り出す際に落としてしまったのだろうか。  なくさなくて良かったとほっとしながら、それを受け取ろうと手を差し出すと。 「あ、ちょっと待ってください」  男性は突然手を引っ込めてしまった。  もしかして、やはり何か下心でもあるのだろうか、と一瞬気が重くなる。  自意識過剰かもしれないが、前回の経験はそれくらい嫌なものだった。  だけど彼はなんの変哲もないただのハンカチを、とても丁寧に埃をはらって、大切そうに渡してくれた。  ただ、それだけ。  本当にそれだけなのに、なぜか強く胸にこみあげてくるものがあって。  こらえきれずに、堰を切ったように涙が溢れた。 「ごめ、なさ……」  自分でもびっくりしたし、焦りもして、慌てて目頭をぬぐった。  涙越しではっきりとは見えないが、目の前にいる彼も、きっと戸惑った表情を浮かべているのだろう。  当然だと思う。訳が分からないだろうし、気まずくもなっているかもしれない。  それが申し訳なくてなんとか涙を抑えようとするけれども、感情のコントロールが全くできなくなっていた。  それからどれくらい経ったのだろう。  私の体感では、数分とも、数十分とも、どちらとも取れるような変な感覚だった。けれども遠目に見える駅前のタクシーを待つ行列が、短くなっているのを考えるとそれほど短い時間でもなかったのだろう。  それでも彼はずっと傍にいてくれた。  それも私の目の前ではなく、視界の端ぎりぎりの場所で、控えめに。 「あの、本当にごめんなさい。こんな状況で、すぐにでも帰宅したかったでしょうに、こんな形で引き止めてしまって」  心の底から申し訳なくて、身体を半分に折って頭を下げる。 「いいえ、とんでもないです。落ち着いたのなら、良かったです」  そう微笑んで、彼はもし良かったら、といつの間にか手にしていた缶コーヒーを差し出してきた。  少し恥ずかしかったけれども、喉がカラカラだったので遠慮なく受け取る。  一口飲み込むと、シロップの甘さと、わずかな苦味が乾いた喉と心に沁みた。 「さて、と。じゃあ僕はそろそろ。あなたも気をつけて帰ってくださいね」  そう言って、彼は私に背を向けると、軽く手を振って歩き出そうとする。 「あ、あの! 私、お礼をしないと」  慌ててバッグの中を漁るけれども、そう都合よく渡せるものなんてない。  さすがに現金は受け取ってくれないだろうし、連絡先を聞いて後日渡そうか、などと考えていると、彼は少し困った表情を浮かべる。 「お礼をしてもらうほど大したことをしたわけではないので」  半ば予想していた彼のその言葉に、私も反射的に答える。 「いえ、そういうわけには」 「多分ですけど」  そんな私に、彼はそう注釈をつけながら言葉を続ける。 「逆の立場だったら、あなたもお礼をもらおうとはしないんじゃないですか?」  そう言われてしまうと、私は言葉を返せない。  この人には、嘘はつけない。 だから、苦笑いを浮かべるしかなくなる。 「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」  ふと聞きたくなって、そんな質問をしてみる。  彼はうーん、と少しうなってから答えてくれた。 「たまに、ありますよね。昨日までなんともなかったことが突然辛くなったり、苦しくなったり。そういう時って、なんだか妙に寂しくなるから」  あぁ、そうか。これって、そういうことなんだ。  なんだか色んなことが腑に落ちる感じがして、自然と笑みがこぼれる。 「私、今日嫌なことばかりだったんです。でも、最後の最後にあなたのおかげで良い日になりました。ありがとう」  何の打算も引け目もなく、こんなにも純粋に感謝の言葉を述べたのは久しぶりだ。 「はは、僕もです。僕も今日嫌なことばかりでした。でも今あなたにそう言ってもらえて、 僕も良い日になりました。こちらこそ、ありがとう」  そう彼も微笑んで。お互いになんだかおかしくなってもう一度笑い合う。  そして今度こそ、私たちは小さく手を振って別れの言葉を告げる。  なんだ。普通にいいことだってあるじゃないか。  久方ぶりに心晴れやかになって歩き出す。  大丈夫。また明日から頑張れる。  自然と浮かぶ笑みをこらえながら、私はタクシーを止めるために大きく腕を振った。  あまりに大きく振りすぎたのか、眼が合ったタクシーの運転手は少し苦笑いを浮かべていた。
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