冷やし中華がはじまらない

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 夏は好きじゃない。なんてったって暑い。とにかく暑い。脱げばなんとかなるとかいう説があるが、人間そうそう公の場で服は脱げない。ましてスーツを強要される会社勤め人間ならなおさら。  ガワがダメなら内側から冷やすしかないわけで、夏はとにかく冷たいものが食べたくなる。あえて熱いものを食べれば生理現象で身体が冷えるとかいう説があるが、俺が欲しているのはインスタントでジャンキーな冷却感であって、発汗と引き換えに得るちょっとした体温の低下などではない。  冷たい食べ物といえばアイスだが、あいつはしょせんデザートに過ぎない。いや、悪くはないのだが、どうせなら腹も満たしたいじゃないか。そしてどうせなのだから、美味いほうがいいじゃないか。  そういうわけで、俺は冷やし中華にはうるさい。気持ち柔らかめに茹でた麺と味の濃いかけつゆ、シャキシャキの千切りキュウリ、肉はハムでもササミでも特に構わないが錦糸卵はマスト、ついでに砕いた氷なんかが撒いてあればパーフェクト。キュウリが輪切りだったり卵がスクランブルだったりするとその時点でもうよろしくない。全てが細くなっていることが重要なのである。暑さで食欲が減退した身体に冷やし中華をするりと吸い込んで初めて、俺の夏は始まるのだ。  今年赴任してきたばかりのこの地で迎える記念すべき最初の夏は、美味い冷やし中華を出せる店を見つけないことにははじめの一歩すら踏み出せない。不思議なほどに定番化したあのフレーズを探して、俺はようやく慣れてきた街を練り歩く。  目当てのものを見つけるのにそう時間はかからなかった。弱い風にはためく文字を読めば、胃袋がアップを始める音がした。
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