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店内は混雑していて、カウンターの向こうで店員たちがせわしなく動いている。ざっと見渡すと、今いる客は全員同じものを食べているようだった。品目は改めて言うまでもないだろう。
「お先に食券の購入をお願いしまーす!」
威勢の良い声に従って券売機の列に並んでいると、近くの中年男性に皿が運ばれてきた。横目で観察すれば――素晴らしい、糸のように細く切られたハムときゅうりと卵、赤いのはカニカマだろうか、それら全てがちぢれた麺を放射線状に彩っている。彼がすすったその一口を見ているだけでもつゆがこれでもかというほど絡んでいることが分かる。一軒目でこのクオリティの店を引き当てたのはまさしくラッキーだ。
やはり人気店なのだろうか、列が進むと入れ替わるように客が入ってきて、俺の後ろに伸びる尻尾に加わっていく。少しばかり進みが遅い気もするが、こういうときの待ち時間は往々にして長く感じるものだと、はやる気持ちを抑えつけた。
間もなく券を買う番が回ってきた。千円札を流し入れ、ボタンが光るやいなや最下段にある『冷やし中華、はじめました』を押す。
何も反応しない。
古くて効きが悪いのだろうか。そう思ってもう一度、今度は少し強めに押してみたが、やはり無反応。連打してみたが効果なし。諦めて他のメニューにでもしようかと思ったが、ラーメンの文字列だけでどんぶりから立ち昇る熱気を浴びた気分になったのでやめた。今は何がなんでも冷やし中華以外食べたくない。
すぐさま店員を呼ぶが、バイトか新入りであろう若い彼からの返答は一言だった。
「書いてある通りに押してくださーい」
押して反応がなかったから呼んだのだが。しかしいそいそと調理に戻ってしまった彼を呼び戻すのも気が引けた。
そうこうしているうちに後ろからのプレッシャーが大きくなっていく。今日のところは諦めて他の店へ行こうかとも考えたが、先ほど見た完成品が思い出され、決断しかねた。あそこまで見事な冷やし中華を我慢するなど到底不可能だ。
半分やけになって券売機を睨みつけていると、ふと気づいた。
このボタンの文言はおかしい。
あくまでも『冷やし中華、はじめました』というのは煽り文句であり、品名ではない。まあそういう店が他にないわけではないが、ふつう「はじめました」まで券売機のボタンに表記するだろうか。
店の扉が開くガラガラという音と、店員たちが新しい客を出迎える太い合唱を聞きながら、俺は頭を巡らせる。
『書いてある通りに押してくださーい』
まさか、と思った。
冷やし中華のボタンは最下段にあるが、それはあくまでも有効なボタンに限った話でしかない。実際のところスロットは上の三段程度しか使われておらず、赤い光を放つ『冷やし中華、はじめました』の下には存在意義のない眠ったボタンが大量にある。いちかばちか、俺は「書いてある通りに」ボタンを押した。
――次の瞬間、思わず笑みがこぼれる。さっきまで無効だと思っていた『冷やし中華、はじめました』の下にあるボタン。押した瞬間にそれは息を吹き返し、己の役割を遂行し始めた。
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