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ミサとハト
どうしてあんなことをしたのか、今でも分からない。ただ、血を流して倒れ伏すそれが、あまりに美味しそうだったのだ。
†
相談できる相手は、他に思い浮かばなかった。友達が一人もいないミサにとって、同い年のハトは何でも話せる唯一の存在である。
生まれた時から家族ぐるみの付き合いで、二人はお互いをよく似た存在だと思っていた。ある意味では、そこに居場所を求めていたのかもしれない。
部屋にはミサとハトの二人きりだった。くたびれたヌイグルミの他に、盗み聞きするものはない。
「パパのことで相談があるの」
ミサは早くに母親を亡くし、小学五年生の今に至るまで父親のタツオと二人暮らしである。はた目にも親子の仲は良く見えた。
そんなミサからタツオのことで相談があるのは、ハトにとって意外なことだった。
「急にどうしたの? ケンカでもした?」
ハトは年齢よりずっと大人びた態度で、ミサに問いかけた。ミサの黒目がちでくりくりとした目は、少し潤んでいる。境遇はまるで違う二人だったが、不思議とよく似ていた。
「大丈夫。今は父さんもいないし、話してみて?」
ハトは優しくミサをうながした。ハトはミサの望むことは、可能な限り施してきたつもりだ。そうすることで、どこかミサに対して優越感を覚えていたのかもしれない。
やがてミサは決心したのか、ハトにうながされるまま、ゆっくりと話し始めた。
「最近、パパの目が怖いの。パパのわたしを見る目が」
「それって、いやらしい感じとか?」
嫌悪感をあらわに、ハトは吐き捨てた。感情をあまり表に出さないハトには、珍しいことだ。しかしミサは、首を横に振る。
「ううん、上手く言えないけど……そう、あれは夕飯のお買い物をしてる時みたいな」
ミサは頭を抱え込んだ。その先を口にしてしまうと、何かが壊れそうな気がしたのかもしれない。
「パックのお肉を見るような目で、わたしを見てるの」
ハトは言葉をつまらせた。予想もしていなかったミサの台詞に、なんと返せばいいのか分からなかったのもある。だがそれ以上に、ミサの尋常ではない怯え方が引っ掛かったのだ。
「ねぇ、ミサ。ひょっとして見られているだけじゃなくて、何か他に?」
「包丁で」
ミサは声を震わせている。
「包丁で、わたしが指を切っちゃった時。パパはバンソウコウを持ってきて、それで」
ハトは肌が粟立つのを感じた。
「わたしの血を、舐めようとしたの。歯をむいて、にやあって笑って。慌てて指を引っ込めたら、パパはごめんって、それだけ」
二人とも押し黙ったまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。先に口を開いたのは、ミサだった。
「ごめんね、変な話をして」
あいまいな笑みを浮かべ、ミサは「忘れて」と言った。ハトは胸に棘が埋め込まれたような気分に、言葉をにごすしかなかった。
†
帰路についたミサは、やっぱりハトに相談して良かったと思った。人に何かを打ち明けることが、これほど心を軽くするとは思わなかったのだ。
ミサは、ハトになら何でも話せると思った。それは写真でしか見たことのない母親像を、ハトに重ねているのだろうか。いや、母親と言うとハトは怒るかもしれない。ミサにとってハトは――
「ハトって、やっぱりお姉ちゃんだ」
ミサは自然と頬がゆるむのを感じた。最近は重々しかった自宅への足取りも、今は軽い。
何があっても、ハトがいるから大丈夫。そう、何があってもハトさえいれば。
それは祈りにも似た自己暗示だということに、ミサは気付いていなかった。
†
ミサがリビングにあがると、タツオは台所で包丁を研いでいた。夕食の準備はこれからと見える。
「遅かったじゃないか」
「うん、ちょっとハトのとこに行ってたから」
ハトは少し考えて、違和感を口にした。
「そういうパパは、今日は早かったんだね」
時刻は午後六時ちょうど。ミサにとっては帰りが遅いと言われるような時間ではなかったし、タツオが家にいるには不自然に早い時間だった。
「ああ、そうだ。パパはな、もう待てないんだよ」
包丁を研ぐ音は、規則的に鳴り続けている。
「待てないって、何を?」
「ずっと我慢していたんだ。ミサ、お前が生まれてからずっと」
包丁を研ぐ音が早くなる。ミサは息苦しいほどの動悸を感じた。
「パパが最初に食べたのは、自分の両親なんだ。ミサのおじいちゃんとおばあちゃんなんだよ」
タツオは表情ひとつ変えずに、ミサを見た。包丁を研ぐ音がぴたりと止まる。
「事故だったんだ。車でね。だけど目の前で血を流してぐったりしている二人が、あまりに美味しそうで」
曇りなく研ぎ上がった包丁を眺め、タツオはうっとりと独白を続けた。
「この世にこれほど美味しいものがあるなんて、思いもしなかった。パパは、もっと若ければもっと美味しいんじゃないかって思ってさ」
再び包丁を研ぐ音が始まる。
「姉さんを食べてみたんだ。大学生だったかな。思った通り美味しくって感動した」
目の前にいるものが本当に昨日までのタツオと同一人物だと、ミサには思えなかった。
「だけどダメだな、お前の母さんはあんまり美味しくなかった。やっぱり他人の肉は美味しくないんだ」
「え?」
ミサは一瞬、理解をこえたタツオの言葉に放心した。
「愛し合った相手ならあるいは、と思ったんだけどな。色々試したけど、他人は美味しくないんだ」
息が浅くなり、やがて止まる。目を背けようとしても、タツオから視線を外せない。時間が止まったような中で、心臓だけは激しく胸を叩いていた。
「そう、美味しいのは、やっぱり血を分けた肉親なんだ」
タツオの脂にまみれたような大きな目と、ミサの怯えきった小さな目が、鏡のように互いをうつした。
「実の娘なら、どれほど美味しいのかな」
悲鳴が上がった。
†
それからのことを、ミサはよく覚えていない。ミサに向けられていた包丁は、気付けばタツオ自身の胸に突き刺さっていた。
リビングは嵐の後のようで、思い出深い食器も割れて床に散らばっている。
「パパ……パパ?」
身体を揺さぶっても、タツオは目を見開いたまま動かない。その間も包丁の刺さった胸からは、おびただしい量の血が流れ続けていた。
「パパは、美味しいのかな」
どうしてあんなことをしたのか、今でも分からない。ただ、血を流して倒れ伏すそれが、あまりに美味しそうだったのだ。
ミサは包丁を力任せに動かして、少しだけ取れたタツオの血肉を口に含んでみた。ガムを噛むかのように顎を動かすと、鼻に抜ける鉄っぽい臭いに頭がくらくらした。
「パパの言った通りだね」
タツオだった肉を飲み込み、ミサはぼそりと口にした。
「やっぱり、他人は美味しくないんだ」
胸をぽっかりとえぐられたタツオの死体は、虚空を見上げていた。
†
玄関の扉を開けた時、ハトは違和感を覚えた。家の明かりが消えていることに対してではない。すえた臭いとでも言おうか、真っ暗な廊下の奥からひどくいやな空気が流れてくるように思えたのだ。
ハトの家庭はすでに崩壊している。こんなことを話しては同情されかねないので、ミサには話せずにいたのだが。
たまに家へ帰って来ては、実の娘にいたずらする父親。そんな鬼畜から娘を見捨てて逃げた母親。この頃のハトは、広く冷たい家に一人でいることがほとんどだった。
「ただいま……?」
恐る恐るリビングに足を踏み入れると、靴下越しに濡れた感触があった。水溜まりのようなものが足元にあるのだ。
臭いはますます濃厚になっている。ハトは呼吸が早くなるのを感じた。
「おかえり、ハト」
リビングの明かりをつけると、口元を赤く染め、穏やかに笑うミサがいた。右手には赤黒く汚れた包丁がある。全身を同様に汚し、長い髪は頬にべったりと張り付いていた。
ハトは、少し前方の床に水溜まりの正体を見つけた。全裸の男が、仰向けに倒れているのだ。父親だった。首もとから下腹部までを引き裂かれ、臭気が立ち上っている。
「臭いよね。でもおならやうんちだって臭いんだから、内臓が臭いのも当たり前か」
「どうして」
ハトは自分の感情を整理できなかった。確かに父親のことは憎んでいた。殺してやりたいとも思っていた。
しかし、いざそれが現実となって目の前に提示されると、胸に去来したのは虚しさであった。
「ねぇハト。パパは本当のパパじゃなかったけど、ちゃんと本当のことを言ってたんだ」
ミサはタツオと血の繋がらない親子だった。タツオはそうとも知らず、まるでごちそうのようにミサを丁寧に育てていたのだ。
「血の繋がったお父さんは、美味しかったよ」
ミサの父親は、ハトの父親だった。二人は異母姉妹だったのである。ミサの母親と、ハトの父親は不倫関係にあった。
「だからほら、ハトも食べてみてよ」
「や、やだ」
父親だった肉を差し出すミサ。ハトは全身をこわばらせ、小さく後ずさりした。
「ふうん、やっぱりいやなんだ」
ぼそりとミサは呟いた。手には包丁が握りしめられたままである。
「わたし知ってたよ、ハトとお父さんのこと」
ミサの表情はまるで読めない。
「でもお父さんも同じこと言ってたんだ。パパと同じこと言ってて、笑っちゃった」
気付けばミサは、ハトの眼前まで歩み寄っていた。
「“実の娘なら、どれほど美味しいのかな”ってさ」
ハトはもう呼吸もできなかった。なぜ父親が全裸なのか。なぜこうもあっさりと殺されているのか。それを理解したのだ。
「汚い」
ハトはたった一言、それだけを口に出すことが出来た。
「汚い、汚いよね? でもハトだって同じだよ」
ミサの口調が早まる。ハトは首を横に振った。違う、汚いのはーー。
「ねぇハト、若い方が美味しいんだってさ」
ミサの瞳には、いまやハトの顔だけが映っていた。お互いが鏡のように、お互いのよく似た容姿を映している。
「実のお姉ちゃんなら、どれほど美味しいのかな?」
振り上げられた包丁は吸い込まれるように、ハトの小さな胸へ深く突き立てられた。
「ミ……サ……」
ハトは最期に、ミサの唇をそっと指で触れた。絵を描くように、赤く汚れた唇をなぞったのだ。ミサは、どうしてか涙があふれて止まらなかった。
ハトだった肉は、今まで食べたどんなものよりも、ずっと美味しかった。
完
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