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第三帖 AI研究者がおっぱいを揉まれる話。
新入社員歓迎会場は宴もたけなわで和やかな空気が漂っていた。
「じゃあ、先輩。僕が先輩に追いついたら、一つだけお願いを聞いてくださいよ」
「ん〜、何かな〜? まぁ、私に追いつくのは絶対に無理だと思うけど、それで後輩くんが頑張ってくれるなら、聞いてあげても良いかもね?」
「じゃあ、先輩の胸を揉ませてください!」
「え? ……う、うん。わかった。わかったから、一緒に研究所を盛り上げていきましょうね」
その爽やかな笑顔の男性新入社員は無邪気に頷き、私はそんな彼が少しでも成長して戦力になってくれればと素直に願うのだった。
――そして、それから一年の時が流れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
私は深夜一時のオフィスで何度もブラウザのF5ボタンを押して再読込みしては、Ctrl+Fボタンを押して自分の名前――Mitsuiでページ内検索をしてしまう。
「なんで……なんで不採択なのよ」
何度やっても検索窓に示される数字は0/0。つまり、そのページにMitsuiなんて文字列は存在しない。採択論文リストに私の名前は無かった。投稿した論文は不採択だったのだ。
(また、ダメだったかぁ……)
天井に煌々とLEDシーリングライトの光が映えるオフィスは、白を基調とした小洒落た空間。創造的な議論をし易いようにとホワイトボードが多めに備えられた部屋には、最低限の衝立を挟んだ個人スペースが並んでいた。
その一角で、私は椅子の背もたれへと沈み込んだ。
今日はあるAIに関する著名学会の論文採択結果が出る日だった。アメリカの西海岸時間の朝8時に公表される結果をオフィスで見ようと、「金曜日はノー残業デー!」の旗を振る部長に頼み込んで、オフィスで結果を待った。
その結果が……これだったのだ。
ブラウザでWEBメールを確認すると、プログラム委員会からご丁寧にメール通知も届いていた。「We regret to inform you that《まことに遺憾ながら》」の定型文を見つけた私はもう現実を受け入れるしかなかった。
私の渾身の論文は採択には届かなかった。
あ、だめだ、ちょっと泣きそう。
「――三津井先輩。結果どうでしたか?」
後ろから声がして、頭を持ち上げた。振り返る。
そこには涼やかな微笑みを浮かべた長身のイケメンが立っていた。
水沢くん。私の大っ嫌いな後輩だ。
「知ってるくせに。どうせ、水沢くんも確認したんでしょ?」
「ええ、確認したんですけどね。大切なことですから、ご本人の口から聞かないとなぁと思って」
「水沢くんって、ホント、ドSよね?」
「う〜ん。そうかなぁ。まぁ、そう言われる時もありますけど、僕は何も嗜虐的に言葉を選んでいる訳じゃないんですよ?」
水沢くんは心外そうに眉を寄せる。
自分の白いデスクに体重を預けるようにもたれ掛かる水沢くんは、右手のマグカップを口許に近づけた。
そんな彼のことを胡乱な目で一瞥してから、私は両手をキーボードの上に走らせる。
数分前、試みに打ってみた文字列をもう一度。
――Mizusawa……検索実行。――検索結果 1/1。
カーソルは移動し、Mizusawaの名前を赤くハイライトした。
その隣には水沢くんを筆頭著者にした論文のタイトル。採択だ。
「おめでとう。水沢くん」
「ありがとうございます。三津井先輩」
そう言って彼は無邪気な笑顔を浮かべた。
こっちが不採択で意識を落としてしまいそうなくらい凹んでいるというのに、その前でこんなにも屈託の無い笑顔を浮かべられる思考回路が謎だ。
なんだか、腹立たしいのが一周して、馬鹿馬鹿しくなってくる。
でも、そう考えることさえ不純に思えてくるほど澄んだ水沢くんの笑顔を見ていると、なんだか「良かったね」という純粋な気持ちが心の中から染み出しても来るのだ。
だからやっぱり、私は水沢くんのことが嫌いなのだ。
「凄いよね。水沢くん。これで入社後二本目だ」
「三津井先輩に追いつきたくて、頑張りましたから」
そう言って、水沢くんは悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
「先輩はやめてよ、同い年なんだし」
「ま、そうなんですけど、僕はやっぱり三津井さんのことを先輩だって思っていたいんですよ。僕の『大切な先輩』ですから」
――大切な先輩
その言葉が、今日ほど重く伸し掛かってくる日は無かった。
水沢くんに先輩風を吹かせる資格なんて私にあるのだろか?
水沢くんは後輩だ。会社的な意味においては。
AI研究推進のために創設された研究所――私たちの企業。
ここに私は二年前に入社し、彼は去年の十月に入社してきた。
水沢くんはイギリスの大学にしばらく留学で出ていて、それで普通よりも半年ずれての入社となったのだという。入社してきた時には「あ、可愛らしい後輩が入ってきたな」と思って、先輩風を吹かせていたことを思い出す。
当時は入社一年目に書いた論文が著名学会に採択されて、正直なところちょっと天狗になっていた。
博士課程で二本の論文を著名学会に通していた私は、入社前からも業界で注目される若手研究者だった。それに自分で言うのも何だけれど、見た目も決して悪くない私は、美人理系女子としてテレビ出演の経験さえあったのだ。
破竹の勢いだった私は、自分の実力を何処かで過信していたし、慢心もしていたのだと思う。
水沢くんが入ってきたのは、そんな時期だった。
「私なんて……、先輩でも何でもないよね。ただ、水沢くんより一年半早く、この会社に入ったってだけ。年齢だって同じだし、これで……採択論文数も同じ」
「そうですね。ようやく追いつきました」
「水沢くんは……本当に凄いよ」
「先輩に追いつきたくて、頑張りましたから」
そう言うと、水沢くんは照れ臭そうに視線を泳がせた。
その仕草に、少し首を傾げながらも、私は彼とのこれまでに思いを馳せるのだった。
私は水沢くんが嫌いだ。ううん、嫌いになった。
何故なら彼が私を不安にさせるから。
彼が私の私であるはずの根拠を奪っていくからだ。
新進気鋭のAI研究者。若手のホープ。研究者らしからぬ美貌。
両親から貰った才能もあったかもしれない。でも、圧倒的多くは自分自身の努力による積み重ね。学問は一日にして成らず。お洒落だってそう。
そうやって作り上げてきた、私自身の存在理由。
でも、一年半遅れでやってきた水沢くんも、その全てを持っていた。そして、私の存在を脅かし始めた。
水沢くんは、入社後間もなく書いた論文を著名学会に通した。社内での注目は彼に集まり、彼を取り巻く空気は大きく変わった。
一方で、同じ著名学会へ投稿していた私の論文は不採択。私の連続採択記録は三年でストップした。
水沢くんも入社時点では博士課程の間に通した著名学会論文が一本あると言っていた。それだけでも業界的には凄いことなのだけれど、当時、既に三本通していた私は、その事実を歯牙にもかけなかった。
『へ〜。水沢くんってあそこ通しているんだ。私も通したよ。ちなみに、この前で、著名学会は三本目通したの』
『三津井先輩、凄いですね。若いのに。そんな先輩の居る研究所に入社出来て良かったです。僕も先輩に追いつけるように頑張ります』
『えへへ。まぁ、運もあったと思うんだけどね。うん、頑張って。何か分からないことがあったら何でも聞いてね』
『はい。頑張ります。三津井先輩!』
そんなことを言っていた。言ってしまっていたな、と思う。
去年の十月に入社後、半年経たない内に著名学会の合計採択論文数を二件に増やした水沢くん。研究所内の期待の視線は彼に集まり、私に対する注目は薄れた。
それでも次世代AI研究を担う女性研究者としての自負があった。だから、そう簡単に研究所内の若手エースの座を渡すわけにもいかなかった。
それでも、彼の足音はいつも後方から聞こえてきた。
日常の議論でも、水沢くんが豊かな学術的知識を持っていて、また、頭の回転も良いのは明らかに分かった。そしてまた、しばしば思いもよらない発想の転換さえも示してしてみせた。それらを見せつけられる度に、私の足場は激しく揺らされて、私の自尊心は斬り付けられたのだ。
彼が私を追い詰める。彼が私から奪っていく。
だから、私は水沢くんのことが嫌いになったのだ。
そして今日、二人が共に投稿していた著名学会の採択論文が公表された。
もし私が採択で、彼が不採択なら、四本と二本で私はまた彼の前を走っていられる。先輩らしく実力の差を見せつけながら。
もし私が採択で、彼も採択なら、四本と三本で私はなんとか先輩でいられる。一年以内に二本通した水沢くんにより注目は集まるだろう。それでも、私は彼に「おめでとう」と言いながら、先輩として先輩らしく、後輩を祝福することが出来るのだ。
でも、もし私が不採択で、彼が採択なら、三本と三本。私はもう、水沢くんの先輩ではいられない。そういう風に思っていた。
そして結果は、その三つ目の可能性へと収斂したのだ。
「水沢くんのテーマってどんなのだったっけ? えっと、カーネル法のやつだっけ?」
「脳科学に示唆を得たカーネル法ですね。年末あたりで三津井先輩とも議論させてもらった奴ですよ」
「時空間モデリングするやつ?」
「それです、それです。arXivに上げたやつだとありますけど見ます?」
その言葉に、私は小さく首を振る。
「このディープラーニング全盛の世に、マニアックなテーマを持ち込んだものよね」
「ははは。でも、あそこって元々脳科学とかの関係も多い学会じゃないですか? このアイデアはマニアックにウケるんじゃないかなぁ、って思ってましたよ」
水沢くんは、そう言って屈託なく笑った。
実は、正直なところ、水沢くんのその論文は落ちると思っていた。
確かに、あまり無い発想で「面白い」論文ではあったんだけれど、いわゆる「通る」論文かというと、そういう風には思えなかった。流行りと関係無いように思えたし、実用性の点からも微妙だった。――でも、蓋を開けてみたらその「面白い」部分が査読者から高評価を受けて、あれよあれよの採択に至ったのだ。
「三津井先輩はディープラーニングの奴ですよね?」
コクリと頷く。ここ十年は猫も杓子もディープラーニング。ニューラルネットワークを多段階に積み重ねたディープラーニングは現在の機械学習の中心的話題。
だから研究もディープラーニングに関係したことに取り組んだ。でも、それが前回、そして今回と続けて裏目に出た。そうとしか思えない。
「うん。まぁ、不採択になった論文のことをいつまでも言っていても仕方ないんだけれどね」
きっと、私らしくない弱々しい表情になっているのだろう。でも、今日はそれが限界だ。油断すると涙腺が崩壊してしまう危険性すらある。本当に泣きそう。
水沢くんは、下ろしたマグカップを両手で抱えながら、じっと私の事を見つめてきた。とても真剣な表情で。
「『量子化ニューラルネットワークの求解軌道に関する理論的考察』」
「――あ、覚えていてくれたんだ」
「もちろんですよ。先輩の論文ですから」
「あ……ありがとう」
ちょっと不意打ちだった。不採択になっちゃったけれど、自分の論文は自分の子供同然なのだ。その内容を覚えていてくれることは嬉しい。
それに今回の内容は、正直に言って自信があった。だからこそ悔しいのだけれど。
「僕は好きですよ……先輩」
「えっ?」
いきなりの言葉にドキッとする。
何? 深夜、一時のオフィスで何を言い出すの? 水沢くん?
「……えっと、『好き』って……どういうこと?」
「え、あぁ、先輩の今回の論文ですよ。僕も好きな内容でした」
「あ、……あぁ、そう、論文ね。うん、そう、論文!」
あ、危ない、危ない。一瞬、変な誤解で、墓穴を掘るところだった。
今回の私の論文はディープラーニングに関わるとある定理の証明が主たる成果だった。
「綺麗でしたからね……先輩」
「えっ? えっと……」
ごめん、水沢くん、主語を省略するの止めてもらって良いかな? 紛らわしいので。
「僕は先輩の定理……綺麗だと思いましたよ」
そう、定理なのだ。定理。綺麗なのは定理なのですよ。
「ありがとう。そう言って貰えると、慰められるよ――ありがと」
そう言うと、堪えきれずに眦を人差し指の背で拭った。ダメだなぁ。
一線で活躍する女性は絶対に泣いたりしちゃ駄目なのに。ダメだなぁ。
嫌いなはずの水沢くんの言葉だけど、ライバルの言葉はどこか染みる。
そんな私のことを水沢くんが真剣な表情で見つめていた。
何だろうか? 何かあるのだろうか?
「先輩。――新人歓迎会の時にした約束って覚えてます?」
「――約束?」
私は「はて?」と記憶を辿る。何か約束なんてしていただろうか?
「お酒も入っていたから、もしかしたら三津井先輩、忘れているかもしれないんですけれど。僕が先輩に追いついたら、『お願い事』を聞いてもらえるっていう約束をしたんです。新人歓迎会の時に」
そう言われてみると、そんなこともあった気がする。
私はお酒を飲むと気は大きくなったりするが、記憶が飛んだりするタイプではない。
しかし、具体的には何だったかな?
「なんとなく……覚えている気がする。なんだっけ? 『追いつく』って抽象的だし、追いついたかどうかなんて、ハッキリとは分からない気がするけれど?」
「そうですね。だから、あの時、僕らはハッキリと『追いつく』に定義を与えたんですよ。――著名学会の採択論文数という明確な定義を」
よく覚えていないが、確かにありそうな話である。
一年前、私は三連続著名学会の論文採択を果たしてノリにノッていた。そして、自信作の四本目を投稿中だった時期だ。普通の新人に負ける気が微塵も無かっただろうから、その自分の得意分野での数値化なら乗っかった可能性は大いにある。
ていうか、ちょっと思い出してきた。
「あ……うん。あった気がする。……ということは?」
「そうです。今日、この採択通知で、僕の累積採択数は3、先輩の累積採択数も3です。だから、追いついちゃったわけです」
そう言って水沢くんはニッコリと笑った。
なんだか、悔しいけれど、そのとおりだ。
一年前、思っても見なかった勢いで水沢くんは成果を出し、そして、私は停滞してしまったのだ。
「それで、『お願い事』って、何だったっけ?」
「――先輩の胸を揉ませてもらうことです」
「そう、胸を――揉む――って、……え?」
「ええ、そうです。先輩の胸を揉ませていただくこと。それが僕が約束してもらったご褒美なんです」
何の約束をしとんねん! 一年前の私!
頭を抱える。しかし、頭を抱えて、当時の記憶を手繰り寄せると、浮かび上がってくるのは、むしろ、それが事実であるという、まざまざとした記憶だけであった。
確かに、……約束していた。水沢くんに胸を揉ませてあげるって……。
でも、あの時点で、絶対追いつかれるなんて思わないじゃん。2ポイント差ついていたし、それに、あの時は3ポイント差も目前だと思っていたし。
「水沢くん……本当に、するの? わ……私の胸なんて揉んでも何も良いこと無いよ?」
胸を隠すように両腕を抱えて、上目遣いに覗き込む私に、水沢くんは目を細めた。
「三津井先輩。『何も良いことが無い』なんて、そんなに自分を矮小化することはやめましょうよ。先輩は素敵な人です。不採択だったけれど、あの論文がとても素敵だったように」
「……でも、不採択だったじゃん。要らないって言われたんじゃん」
水沢くんはゆっくりと首を左右に振った。
「それは査読者に見る目が無いんですよ。残念ながら僕らは査読者を選ぶことが出来ない。だから、どんなに素敵な論文でも、査読者に恵まれなければ不採択になってしまうんです。彼らに先輩の論文の魅力が分からなかった。それだけのことですよ」
それは本当だ。一つの論文に三人の査読者という審査員が付き、基本的にはこれらの付ける点数の合計点で採択か不採択かが決まる。査読者の判断は時に主観的なところもあり、どういう査読者に当たるかどうかの運不運も採否に大きく影響する。
「分かっているわよ、そのくらい。でも……不採択だったの」
「先輩の論文、僕が査読者だったら絶対に採択でしたけどね。僕なら先輩の魅力を見落としたりなんてしない。僕は――大好きですよ」
私を見つめる水沢くんの瞳は真剣だった。
頬が赤くなるのを感じる。そんな風に言ってもらえたのは初めてかもしれない。
「先輩は素敵です。僕が追いかけたくなるくらいに。先輩は綺麗です。先輩が生み出す定理がとても美しいように」
歌うように言葉を紡ぐ水沢くん。私はその顔を覗き込んだ。
「……本当に、揉みたいの? 私の……その……胸を?」
胸を隠したまま、おずおずと尋ねると、水沢くんは「良い質問ですね」とでも言わんばかりに一つ大きく頷いた。
「僕は先輩に追いつきたくて、捕まえたくて、ここまで来たんですよ。一年間、一生懸命、走ってきたんです」
「……え? じゃあ、この一年間、水沢くんが、物凄い勢いで、研究に打ち込んで、成果を出していたのって」
「もちろん、先輩に追いつくためです。追いついて、捕まえて、――そして、先輩のことを抱きしめるためです」
「……それって、私の……ため?」
思わず唇から零れ落ちた言葉を、掬い取るように水沢くんは「ええ」と頷いた。
何だか思わず肩の力が抜けた。
私って馬鹿だなぁって思う。
そうだったんだ。
この半年間、私は水沢くんの足音に怯えていた。
もの凄い勢いで迫ってくるその足音に。
私から大切なものを奪って、私を追い抜かしていきそうなその足音に。
でも、違ったんだ。その一歩一歩は、真っ直ぐに私の方に向かってきてくれていたんだ。私のことを追いかけてきてくれていたんだ。
そして、水沢くんの瞳は今も私のことをじっと見つめてくれている。
「――どうすれば、良いのかな?」
私が椅子を回転させる。
水沢くんは白いデスクにもたれ掛かったまま、両腕を広げて見せた。
「ここにおいで」と言わんばかりに。
私は、溜息を一つ付いて、立ち上がる。
「もう……、一回だけよ」
私の溜息に、彼は言葉を発さずに、ただ優しく微笑んだ。
彼の前まで辿り着く。促されるがままに彼の胸に背中を預け、彼と同じ方向を見た。
そして、彼に身体を預けるようにもたれ掛かる。
「こう?」
「――うん」
耳元で水沢くんの囁く吐息みたいな声がした。
やがて彼の指先がボトムスに包まれた私の太腿を撫で、その両腕が上半身を柔らかく包み込んだ。
「ちょっと、水沢くんっ。――胸を揉むだけじゃなかったの?」
「胸は揉むよ? でも、その前に、もう少しだけこうさせてよ。――やっと追いつけたんだ。やっと捕まえられたんだ。三津井先輩のことだから、また、すぐに引き離されるかもしれない。だから、今、この瞬間だけでも、先輩のことを抱きしめていたいんだ」
「……水沢くんなら、大丈夫だよ。私が全力で走っても、また、追いついちゃう」
「後ろから足を引っ張る男なんて嫌いでしょ? 僕は、先輩が全力で走っても、ちゃんと近くに居られる、そんな存在でありたいなって思うんです」
そう言うと水沢くんは、腰から回した両腕に少し力を入れた。
背中越しに心臓の音が聞こえる。早く脈打つその鼓動は、しかし、途中から、それが水沢くんのものなのか、私自身のものなのか、分からなくなってしまった。
「生意気だぞ。……後輩のくせに」
学生時代から努力して、ずっと突っ張って、一番でいた。そして孤立してきた。
何度か彼氏がいたことはあったけれど、こういう風に言って貰えたのは初めてだった。
「先輩の定理は綺麗です。でも、先輩も綺麗です」
「それはさっき聞いた」
耳元で水沢くんが囁く。私は振り返らないで彼と同じ方向を見つめたまま返す。
「先輩の論文は好きです。でも、先輩のことがもっと大好きなんです」
「ありがとう。私も水沢くんのこと――」
そんな良いところで、水沢くんの、両手がゆっくりと上ってきて、私の胸の二つの膨らみを柔らかく捉えた。そして二度三度と私のそれを脈打つように包む。
私は思わず吐息を漏らしてしまい、口許を両手で覆った。
「『水沢くんのこと』――が何ですか? 先輩?」
彼の口からそんな意地悪な言葉が飛び出す。
――水沢くんのことなんて、大っ嫌いなんだからっ!
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