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「もう、ですか? だってまだ三ヶ月ですよ。はい、ええ……わかりました」
僕こと山内昇太(28)は、本社からの電話を切って、大きく溜息をついた。
事務所内に不安が立ちこめているのは内容に皆、察しがついているからだろう。
東京から遙か遠く、飛行機と電車を乗り継いで、およそ半日かけてこの事業所に僕が転勤したのは三ヶ月前。立て直しを命じられてのことだった。無理筋と誰もが思った再生に目処がついたというのに、このザマである。
皆の前でふてくされるわけにもいかず、僕は缶コーヒー片手に屋上へ。
「せっかく山内さんががんばってくれたのに、あんまりですよね」
おどろいて振り向くと、同僚の吉野由利さん(24)が立っていた。
「サラリーマンなんで、仕方ないです。出来ることをするだけですから」
「いいですよね。戻れる所があるから」
「――え?」
その時、僕は大きなことを失念していた。
事業所が廃止になる、それは彼女たちの失業を意味していた。
「あ、すいません。気付かずに……」
「いえ。実家に戻るだけですから」
そう言う吉野さんの目は、ひどく昏かった。
彼女は何か言いたげな様子だったが、会釈だけして静かに階下へと消えていった。
吉野さんは転勤以来、僕の助手としてよく世話をしてくれた女性だ。物静かで綺麗な標準語を話す彼女は、大学卒業後就職出来ず、東京からUターンしたという。
事業所整理のための段取りを考えるのに残りの勤務時間を費やし、定時で退社した僕は、昼間の吉野さんのことが気になって、彼女を飲みに誘った。
駅前の居酒屋に入ると、休み前のせいか客は多め。喧噪が逆にカモフラージュになって打ち明け話をするには都合がよさそうだ。
形式的に乾杯をすると、早速僕は話を切り出した。
「屋上で何か言いかけてましたよね」
「……いえ」
「じゃあ、僕の気のせいだったのかな」
無言で僕に酌をする吉野さんの手がわずかに震える。
瓶ビールを2本あけた程度では吉野さんの心を開くのに足りなかったようで、丁度つまみも無くなり、追加オーダーを取ろうとテーブル上の端末を操作していると、
「ウイスキーを下さい」
と彼女がぽつりと言った。なるほど、アルコール分が不足していたわけか。
それから彼女は、自分のことを話してくれた。
必死に勉強して公立の進学校に合格したこと、奨学金をもらって東京の大学へ進学したこと、新卒で就職出来ず地元に戻ってこの会社に就職したこと。そして、
「大学に行ってから、実家に帰ったことはありません」
彼女はぎゅっと自分の手を組んでうつむいた。
ここまで聞いて、やっと気付いた自分の鈍感さに腹が立った。
「ご実家に、戻りたくないんですね?」
彼女は、否定も肯定もしなかった。寡黙な人間は言葉を選ぶ。つまり沈黙は肯定だ。
「僕に東京に連れ帰って欲しい、と思っていいのかな?」
とうとう彼女は啜り泣きを始めた。よほど実家でひどい目に遭ってきたのか。優秀な彼女をここまで思い詰めさせる親族たちに、僕は怒りを覚えた。
「私、山内さんの言うこと何でもします。すぐに仕事を探して部屋も借ります。だから、だから……」
あとは言葉を発するのもつらいのか、ハンカチで口を覆って嗚咽を漏らし始めた。
こんなことを吉野さんの口から言わせてしまうなんて、僕は最低野郎だ。さっさと一緒に東京に行こうと誘えばいいのに。女性一人を養うぐらい、今の僕には造作も無いのに。今から言ったって、これじゃ彼女の体目当てみたいだ。
独り身なのに即答してやれない自分が情けなかった。
客も減り、好奇の目が痛くなってきた僕は、彼女を連れて店を出た。
「山内さん、やっぱりさっきのこと、忘れてください。縁もゆかりも無い貴方に、あんなことお願いするなんて、私どうかしてました」
「いや、それは無効だ。君のお願いは受理されている」
「え?」
困り顔の彼女の目に光が差すのを僕は見逃さなかった。
「僕を何だと思ってるの? 地方事業所の建て直しを命じられた優秀な再生専門家だよ。人一人養うのはカンタンだ」
差し出した僕の手を、彼女は戸惑いながら掴んだ。
それからの僕の仕事は早かった。彼女の戸籍を親から切り離し、追跡も出来なくし、本籍地を移動させた。ネットで家具付き物件も見つけ、いつでも彼女を受け入れ可能にしておいた。
そして、僕の帰京と共に、あの街から吉野さんの存在は綺麗さっぱり無くなった。
「こんなステキなお部屋まで用意して頂いただけじゃなく、何から何まで、本当にお礼のしようがありません」
「きっと僕は、吉野さんを再生しに行ったんだろうな」
「ところで、どうして表札の私の姓が山内になっているんですか?」
「どうしてだろうね?」
僕は彼女を窓際に招き、美しい東京の夜景を眺めた。
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