かつて他人だった君に

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 それから少しばかり、時が過ぎた。  冬になってぼくがこの庭に来なくなったら、君はどうするのだろう。  気温の下がりはじめた初秋、ぼくは君を待ちながらそんなことを考えていた。ぼくは律儀にも、ひとの子どもである君なんかの約束を守って(時にはやぶったりもして)蔵の陰で君が来るのを待つようになっていた。  つまらなくて退屈だという学校から帰ってくる君の顔はいつだって暗い。そんな君がぼくの姿を見るとぱっと表情を明るくするのだから嫌になってしまう。  ねぇ君、ちゃんとひとの友達を作りなよ。  ちろちろと舌を出し入れしながら意思を送ってみる。通じないさ、分かってる。ぼくの視線を受けた君は嬉しそうに、だけどやっぱり生意気な笑みを浮かべるんだ。その笑い方、ぼくはもう嫌いではないけどね。  ――お前なんかの相手をしてやるのは僕ぐらいのものなんだからな。  恩着せがましいいつもの言葉。ぼくもお返しに心の中で言い返す。  君をこうして待っているのはぼくぐらいのものなんだからね、分かってる?  互いに交わせる言葉もない、いつもの夕暮れ。そう思っていた。  けれどその日は違っていた。  ――あれぇ、お坊ちゃん。どうしたの?  屋敷の外から塀を乗り越え、顔を出して声をかけてくる子供の姿があった。いかにもガキ大将という風体だ。  ――お坊ちゃんはお友達が蛇しかいないんだ?  塀から敷地内に入ってきたガキ大将に、君は冷たい一瞥をくれる。  ――ここは僕の家だ。勝手に入るな。  ――勝手じゃないさ。玄関で坊ちゃんの「お母様」に声をかけたらどうぞ上がっていって、って言われたからな。 「お母様」の部分に皮肉を込めた嫌な口調でガキ大将はそう言った。お金持ちの甘ったれ、と嘲り笑う。  ――お友達がいないみたいだから仲良くしてあげて、だってさ。  かっと君の顔に血がのぼった。視線が鋭くなった。  ――ひとりぼっちの寂しんぼうは、学校でも仲間外れだもんなぁ?  ああ、これは――とぼくは嫌な予感を抱いた。きっと君は、学校でずいぶんまわりの人間に嫌な印象を与えてきたのだろう。これまでは遠巻きに避けられてきただけだったのが、今日学校で何が起きたのか、とうとうこいつの許容量を超えてしまったのだ。  この子どもは、君に悪意を向けに来た。  ――蛇が友達なんて、惨めなやつだよな。  その瞬間、君の顔が見たことのない表情で固まるのを見た。浮かんでいたのは、咄嗟の、躊躇いのような感情。  ――この、蛇は……。  ぼくは形容しがたい気持ちで君を見上げた。……即答してやれよ、こんな蛇友達なんかじゃないって。躊躇うなんて、ばかだなぁ。なんでこっちを気遣うような顔をするのさ。蛇に言葉が通じるわけないだろう? 友達じゃないって言われたって、ぼくは別に傷つきやしないのに。  躊躇いは数秒の間に過ぎた。ぼくの言葉が伝わったわけではない。自分よりも劣る存在に馬鹿にされてなるものかという君の生来の矜持が強く顔を出したのだ。  君はきっ、と強く相手を睨んだ。  ――違う。  君は低い声で言った。  ――友達なんかじゃない。こんな蛇ごときが、僕の友達であってたまるか。  ――何言ってるんだ、毎日話しかけて遊んでるんだろう?  どうやらガキ大将は時折こっそりぼくらの様子を覗いていたようだ。それを学校で言いふらし、陰で嘲笑っていただろうことは想像に難くない。  ――恥ずかしいやつ。  ――違う!  君が幼い子どものように地団太を踏んで否定した時、ガキ大将がぼくに手を伸ばした。あっ、と思う間もなく、ガキ大将の手の中に捕らわれてしまった。  ――じゃあ、要らないよな!  素早く塀をよじのぼり、そのてっぺんでぼくを乱暴に振り回す。苦しい。振り回されてぐるぐると回る視界に君の顔が映る。……何て顔をしてるのさ。そんな心配そうな顔をしたら、付け入る隙を与えるばかりだって言うのに。  ――離せ。  ――たかが蛇一匹じゃないか。こいつがどんな目に遭おうと別に坊ちゃんは痛くもかゆくもないだろう。  ……そうだ。そんなやつ、別にどうなったって構わない。  ガキ大将は大仰に手を広げる。  ――そうでしょうとも! まさか蛇なんかが唯一のお友達というわけでもあるまいし。貧乏人ばかりの学校にはいなくても、お稽古ごとやお金持ちの仲間にだって、一人くらいはお友達がいるだろう?  君はぎり、と歯噛みする。握りしめた拳は固い。学校であろうとその外であろうと、心打ち解ける相手などいないことをぼくはよく知っている。みじめな思いを味わっている君に、寄り添って尾を巻き付けてあげられないのが不甲斐ない。  でもどうか、そのまま、押し黙っていてほしい。ぼくのことを無視し続けるんだ。蛇なんかに感情を動かされる様など見せたら、君の負けだ。  それにぼくにとってだってね、君は別に特別というわけではないんだよ。君はエサをくれる人。気位ばかりが高くて素直になれない嫌な性格の子ども。それだけだ。それだけなんだから。  反論が返ってこないことにガキ大将はつまらなそうな顔をする。もっと傷つけてやりたかったのだろう。塀を跨いでいた足を、外の道に向けた。  君は塀の中、屋敷を背後にして足をその場に縫いとめられたように立ち尽くしていた。瞳はじっと、足元を見つめていた。  塀を降りてガキ大将は道を駆けだした。ぼくを掴んだ腕を勢いよく振りながら走る。途中、後ろを振り返って汚く笑った。  ――意気地なしめ。追いかけても来ない。  君が臆病者であることを喜ぶ声と、……それから。  ……これからぼくを気ままにいたぶれることに胸を躍らせる気配が、した。
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