二、

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二、

 次の日には行こうと思っていたのに、気づくとなんとなく足が向かなくなっていた。お父さんに、あんな話を聞いたせいかもしれない。私をつなぎとめたいのはともかく、お父さんやおばあちゃんを家族の枠から切り離してしまったお兄ちゃんに、胸がささくれだってしまったのだ。  そのささくれが収まるのを待っていたら、結局最後の日になってしまった。あと一時間もしたら、私はお父さんと遥香の待つ寄宿舎へ向かう。  昨日電話で話した遥香はすごくうれしそうに、何度も「待ってる」と言った。遥香には、おばあちゃんが勧めてくれたバームクーヘンをお土産にすることにした。去年移住したばかりのケーキ屋さんが、町のお土産になればと売り出したものらしい。うちの町でそれっぽい名前をつけて売れば、バームクーヘンも「杉の年輪もどき」になる。うまい商売だ。  味を確かめるために家の分も買ってみたけど、しっとりとした生地とバターの香りに釣られて食べ過ぎた。周りの雑音にも負けないくらいたくさん売れて、いつまでも町にいてくれたらいい。  一息ついて拳を握りしめる。目の前のドアを二回、ノックした。 「お兄ちゃん、私」  声を掛けると、いつものようにドアが引かれる。でも今日は、鍵を開ける音がしなかった。 「どうぞ、上がって」  迎えるお兄ちゃんはこの前よりやせて、顔色も悪い。やっぱり、遅すぎたのかもしれない。でも、これ以上早くはできなかった。ちらりと確かめた本棚脇の箱の中には、まだ五冊以上処理を待つ本が残されている。 「ごめんね、なかなか来なくて。いろいろ考えてたら、整理するのに今日まで掛かって。もうちょっとしたら、向こうに行くよ」  出発を告げる私に、お兄ちゃんは寂しそうな顔で「そっか」と言った。 「それ、似合うね。おばあちゃんに買ってもらったワンピース?」 「ああ、うん。ありがとう」  初めてちゃんと袖を通したワンピースは、ボートネックで鎖骨がきれいに見える一枚だ。トップス部分はベージュで、スカート部分は黒。大人っぽい色の組み合わせだった。どれくらい大人っぽくできるか試したくて、今日は編み込んだ髪をまとめて上げてみた。お父さんにはまだ見せてないけど、おばあちゃんは「素敵ねえ」と褒めてくれた。 「お父さん、ひとまず私が医学部を目指すのは許してくれたの。ただ途中で私がしたいことを見つけたら、そっちを選ぶのが条件だって」 「まあ、そうだろうね。でも目指すのは許したんだ。俺にはそんな気配も見せなかったけど」  とげのある言葉に、収まったばかりのささくれが起き始める。違う、そんな話をするために来たわけじゃない。スカートがしわにならないよう気を使いつつ、ソファに腰を下ろす。お兄ちゃんは私を避けるように机へ向かった。 「帰る前に、一つ誤解をといておきたくて来たの」 「誤解?」 「うん。もしかしたら、お兄ちゃんは私のことを『お兄ちゃんのことをすごく大事にしてる優しくていい子』だと思ってるんじゃないかと思って」  ほかのことは言えないけど、これだけは言える。久し振りに思い出したあの夢に、視線を落とし膝の上で手を握りしめた。 「私、友達にお兄ちゃんのこと『大学生』だって言ってるの。みんなのお兄ちゃんやお姉ちゃんが高校行ったり働いたり、そんな話をしてるとこに『ずっと家にいる』って言えなかった。みんなのとこに合わせて高校行って大学受験して受かって、京都で暮らしてることにしてる。これからも、ほんとのことは言えないかもしれない」  重ねた手から、ゆっくり視線を上げる。お兄ちゃんは私の視線を避けるようにあちらを向いて、机の上を片付け始めた。背中に垂れた髪は、いつもどおりきれいにまとまっている。カウンターの上も、キッチンも本棚も床も、散らかったところは一つもない。 「医学部に行ってお兄ちゃんを助けられる研究がしたいって思ったのも、半分は自分が楽になるためなの。だから私のことは気にしなくていいけど、もし私みたいな妹には頼みたくなくなったら、言って」  これでもう、唯一の家族ではなくなってしまうかもしれない。でもこのまま「私じゃない私」を見続けられるのは、もっと苦しい。今の私は、一緒にじっとお母さんが生き返るのを待った、何も知らなかった私ではないのだ。 「ごめんね。いい妹のままでいられなかった。でも私は、お兄ちゃんが好きだよ」  本気になれば、言える言葉だった。  腰を上げて、スカートの後ろを払う。お兄ちゃんは背中を向けたまま、何も答えそうにない。お父さんは大人だと言ったけど、私には違って見える。お兄ちゃんは、あの頃から変わっていない。大人の言葉を使っても、大人のようにお金を持っても、今は私より子供に見えた。 「じゃあ、いってきます」  振り向く気配のない背中に声を掛けて、ドアへ向かう。重い足のせいでいつもより遅くなったのに、「待って」は最後まで聞こえなかった。
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