もうひとつのプロポーズ

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もうひとつのプロポーズ

 それから──────   彼は時々、お店を訪れるようになった。  お母様が花がお好きらしく、季節の花々を2、3本買っていったり、殊に白い薔薇がお好きだということで、それ一輪だけを買って帰ることも多かった。  そして最近では、二人で食事をしたり、甘いもの好きの私に合わせて、ケーキの美味しい有名なカフェやパティスリーに連れて行ってくれたりする。  それは、この上なく楽しい至福の時間。  彼と一緒に歩く時、彼は必ず私の右側を歩く。  それが、車道の車から私を守ってくれているということに気づいたのは、危うく大事故に遭いそうになった時のことだった。  信号無視した飲酒運転の車が、私達の歩いていた歩道へと乗り上げた時、彼はとっさに身を挺して私をかばった。  ほんの僅かな寸さで私達は無事だったがあの時、私は本当に死ぬかと思った。  事故そのものも怖かったが、それより何より彼の身に何かあっていたらと思うと、今でも身震いがする。  彼の歩く足の速さは私よりずっと速い。  手を繋いでいてもすぐ置いてきぼりにされそうになる。  すると彼は立ち止まり、ゆっくりと私を振り向く。   その度に、彼はいつも申し訳なさそうに苦笑する。  私は彼のその表情(かお)が、嫌いではない。    本当は、はっきりと大輝さんから告白されたことはなかったが、私はすっかり彼を信頼し、自分を委ねるようになっていた。 そして、大輝さんと出逢ったあの冬から初夏へと季節が移りゆく頃……。 「あら、いらっしゃいませ」  暫くぶりに彼が店へと訪れた。  私は、とびきりの笑顔で向かえ入れる。 「今日は如何なさいますか?」 「ああ。その……。赤い薔薇の花束を買いに来たんだ」 「赤い薔薇、ですか?」 「ああ」  赤い薔薇の花言葉は主に『愛』に関する言葉だ。  彼はそのことを知っているのだろうか。いや、赤い薔薇なんて定番中の定番だ。第一、男性が詳しい花言葉など知っているわけがない。  私は落ち着いて、 「何本になさいます?」  と、尋ねた。 「108本で……。あ、それからこの手紙を添えて欲しい」  その言葉を聞いて私は一瞬、顔色を失った。  108本の赤い薔薇……その花言葉の意味は……。  私は店にあるだけの赤い薔薇を集めながら、次第に涙ぐんでいた。  108本の赤い薔薇……それは、『あなたを愛しています。結婚してください』という意味を持つ。  そう言えば、今日の彼のスーツは『D'URBAN(ダーバン)』か『TROJAN(トロージャン)』だろうか。この暑い中、一見して、それはとても仕立ての良い三つ揃えの紺のスーツを着ている。  そして極めつけは、真っ白な封書。  明らかに、これは今から『プロポーズ』をしに行くとしか考えられなかった。  思えば私は、大輝さんからはっきり『つきあってくれ』と言われたことはない。  つまり、ただの気安い女友達に過ぎなかったのだ。  その事実に私は、すっかりと打ちのめされていた。 「お待たせしました。一本4百円ですので、4万3千2百円になります」  彼は、そんな大金をあっさりと現金(キヤツシユ)で支払った。  そして、その実に見事で贅沢な赤い薔薇の花束を大事そうに抱える。 「ありがとうございました」  呟くような小声でそう言うと、私は店の奥へ引っ込もうと身を翻した。涙だけは見られたくなかった。 「優雅!」  その時、背後から私の名を呼ぶ彼の声が聞こえた。  一瞬、振り返った。 「これを、君に……」 「え?」 「君に受け取って欲しいんだ」  大輝さんはそう言うと、私にその大きな赤い薔薇の花束を手渡してくれた。  迂闊にも全く思ってもいなかったことの展開に、私はすっかり我を忘れている。 「実は俺、この夏からチューリッヒに転勤することになったんだ」 「え……?!」  私は耳を疑った。  しかし、考えてみれば貿易商社なのだから、海外赴任は当たり前のことだ。  だけど、私はすぐには話についていけない。 「その手紙……読んでくれないか」  大輝さんは言った。 「手紙の中に、僕の気持ちが書いてある」  震える指で、私はゆっくりとその封書を開けた。  中には、私の大好きなマカロンの綺麗な写真のカードが一枚入っていた。  そこには、 『 Dear my Yuka   It's being so that I don't have that any more.   From your Daiki 』 (優雅へ 『これ以上ないほど愛してる』 大輝より)  と、大輝さん直筆の青いインクの文字があった。 「今までちゃんと言ったことなかったな。ごめん。でも……」  大輝さんは呟いた。 「ついてきてくれないか?」  それこそ、これ以上はないほどの真摯なまなざしで、大輝さんはそう言った。 「優雅、愛してる。僕と結婚して欲しい」  それは紛れもなく、はっきりとした正式なプロポーズだった。 「……私でよろしいの? 大輝さん」 「君でなくてはダメなんだ」  あの時の彼らの会話を私達は今、再現していた。    ふたり見つめあう。  熱いものがこみ上げてくる。  108本の赤い薔薇の花束に祝福されながら、私は瞳に涙を浮かべ、この上なく幸せに微笑(わら)った。
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