観音懸想

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 細竿と太鼓の囃子が流れる。  万雷の拍手のなか、流れるような足さばきでご老体が入ってきた。  男が生きてきた一世紀近くにもなる年月を感じさせず背筋がピンと伸びている。  真ん中の高くなった場所の座布団に丁寧に足をたたむと深々と頭を下げた。  再びの拍手  ええ  こほんと一つ咳をする。  このたびは弟子の真打ち昇進のご挨拶にご来場いただき誠にありがとうございます。  その場に立ち会えるというのはなによりの喜びですな。  この歳になると余計にそう思います。  隠居じじいを気取っておりましたが、おめおめと戻って参りました。  どうぞよろしくお願いします。  さて最近の若いやつはやれ新作だ、創作だと怪気炎をあげておりますが、うちの馬鹿弟子も同じでして。  しかし今日この晴れの舞台に『芝浜』をやるっていうんですからまっこと嬉しくて嬉しくてね。  もう私このまま昇天しそうです。  くしゃくしゃの笑顔にどっと笑い声が起こる。  (よっ!奥州屋!)  (あんたを見に来たんだよ!)  ええ、ええ、ありがたいことです。  最後の弟子が一人立ちするってえのに師匠が腰抜けじゃいけませんや。  それで皆さんにはお聞き苦しいかもしれませんが、私も新作をやってみようと思います。  (どおおおとざわめきが起きる)  バチンと扇子を叩く。  一瞬で世界が変わった。  熊吉が長屋住まいの親友、与太郎を訪ねるところから始まります。 熊「あのやろうの昨日の青白い顔が気に入らねぇ。何か悩みでもあるんじゃねえか。水くせいやろうだ。」 熊「おおおい。与太郎、邪魔するぜい。」  すっと引き戸を開けると与太郎が梁にかかった縄に首を通そうとしている。 熊「ばっ馬鹿やろう!」  草履を蹴飛ばして近寄ると与太郎を抱え上げて万年床に投げ飛ばした。 熊「へあっへあっ、このすっとこどっこい!」 与太「熊か……。もうだめだ……。死んだ」 熊「まだ死んでねえよ。その寸前だったんだよ」 (笑い声)  与太郎ははっと気づいて首をあらためた。そして恨めしそうに熊吉をみる。 与太「なんだ、まだ死んでねえのか。余計なことを。」 熊「そうじゃねえ。そうじゃねえだろ。理由を言え理由を!」 与太「理由か……。話してもいいが……」 熊「どしたい」 与太「腹が減った」 (笑い声) 熊「死にてえのか生きてえのかはっきりしねえ野郎だな。まぁいい。まずは飯だ。食いにいくぞ」  長屋を出て屋台に行くすがら与太郎はあっちにふらふらこっちにふらふら。  湯気のたった蕎麦を前にすると流石に生き死にはどっかに行って二人で夢中ですする。 熊「どうだ? 落ち着いたか?」  心配する熊をよそにまだため息を吐いている。 与太「はぁ……」 熊「だめだな。次。団子だ。団子食いにいくぞ」 与太「今食ったばっかりだ……」 熊「腹が減っては相談もできぬってな。とにかく行くぞ。大将!二人分の勘定おいとくぜ」  二人がなじみの茶屋に来た頃にはだいぶ与太郎の顔色も良くなってぽつぽつと話し始める。 与太「なぁ熊公。身請けするのにいくらかかる。」 熊「はぁ~?おめえ最近花街うろついてると思ったらそんなこと考えてたのか!」 与太「いくらだい。熊」 熊「そうさなぁ。器量にもよるが五十両もありゃあな」 与太「熊、一両みたことあるか?」 熊「そんなものねえよ」 与太「だめだ。やっぱり死ぬ」 熊「だから。おめえはすっとびすぎなんだよ。」  そうか。女か。 熊「あのな。与太郎。花街の女はあっちにいい顔こっちにいい顔。それに大体、身請けってのはな。大っきい庄屋の若旦那とかな。身元がしっかりしたやつじゃねえとできねえんだよ。長屋暮らしで食うにことかいてるやつが口にしていいもんじゃねえ」  与太郎はしょんぼりした顔でうつむいている 熊「でもな。おめえちょっと見直したぜ。」 与太「え?」 熊「この前もあっただろ? 心中よ。男が女切りつけてよう。偉い騒ぎだったじゃねえか。それに比べておめえは、ちゃあんと金子を積んで、ことをなそうとしてる。馬鹿だけど。そういうところは気に入ってるぜ。馬鹿だけど。」 与太「そうかい……。なんだかこそばゆいねえ……。」 顔に精気が戻ってきた。 与太「よし!決心がついた!そんなにおめえが俺を買ってくれるんなら。身請けの話してくるぜ!」 熊「本当に馬鹿だな! やっぱり死ね! 今死ね! 人様に迷惑かける前に俺がくびり殺してやる」  二人は茶屋の前で取っ組み合いを始める。  騒ぎは大きくなって、茶屋の娘が悲鳴を上げる。  野次馬もどんどん膨れ上がる。  二人は転がるように茶屋の奥に突っ込んだ。  ふと我に返ると二人の前に、手彫りの観音菩薩様が転がっていた。  与太郎が突然大声で 「あああああああ」 と叫んだ。 与太「こいつだ! 俺が惚れた女にそっくりだ!」  野次馬は気味悪がって少し遠ざかる。 女将「この罰当たり! なんてことすんだい! 奉行所につきだすよ!」 与太「女将さん。いっしょおおのお願いだ。この店はちゃんと俺が働いて直すからこれを売ってくれ!」 女将「あんたが触ってケチついたんだ! 高いよ!」 与太「かまわねえ。かまわねえよ。ありがてえ。ありがてえ。」 与太郎は女将になのか菩薩になのかひたすら手を合わせて拝んでいる。 一人取り残された熊吉は呆けている。 その後。与太郎はきっちり茶屋を直した後、頭を丸めて出家した。 西国の有名な寺の住職になったという。  ただ、その住職は毎夜、毎夜、お堂で観音菩薩と一緒に居ることを続けたといいます。 熊「馬鹿は死んでも治らねえと思ってたら、仏になっても治らねえんだなぁ」 御後が宜しいようで。 ※※※※※※  舞台裏につくと少しよろける。  なれねえ事はするもんじゃねえな。  道理がわからねえから受けたんだかどうかもわからねえ。  一人ごちる。  楽屋にはいると真打ちになった弟子が頭を下げて待ち構えていた。 「師匠。素晴らしいはなむけ。ありがとうございます。」 「頭を上げろ。そうぺこぺこするんじゃない。もうおまえも弟子をもつんだ」 「へい」 「なれねえことだと思ったが、何かを始めるのに遅いことはねえな。今日は勉強させて貰ったよ」 「師匠。それじゃあ。」 「もう何回できるかはわからねえが、高座に上がれる時は呼んでくれ。最後にありったけのものおめえにたたき込んでやるよ。」 「看板。新作、はじめました。と書いておきやしょう」 「馬鹿たれ。それなら。終活、はじめました。にしとくれ」  了
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