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十七歳・残された日々(3)最後の体育祭
五月二十日(日)快晴。
私にとって高校生活最後の体育祭が、広い済陵のグラウンドで行われている。
私は午前中、二、三年女子の障害走競技に出ただけで出番は終了。
後は、この日の為にわざわざ業者によって雛壇の様に組まれた仮設の団席からプログラムを観戦し、応援団の演舞・チアガールの華麗な競演風景を眺めていた。
そんな風に過ごしている間に、早くもラスト済陵体育祭名物、パートナーチェンジなしのフォークダンスが始まった。
応援団の男子とチアの女子が、手を取ってグラウンド中央に走ってゆく。
曲が進むにつれ、体操服姿の一般生徒も増えて、ダンスの輪は広がってゆく。
私はその情景を眺めつつ、回想に耽りながらお馴染みのオクラホマを聴いていた。
その時。
不意に後ろから肩を叩かれたのだ。
びっくりして振り返ると、
「守屋君……!」
「踊る気、ない?」
「私と……?」
そう問いかけた私を知らぬ気に、彼はさっさと私の手を掴むと走り出した。
オクラホマを踊るのは中学以来で、実に三年ぶりになる。
あの頃の私は、同じクラスの片想いの男子と手を繋いでいる間中、胸の鼓動を意識していたけれど。
今も私は情けないことに、守屋君の顔もろくに見ないまま、心臓の音をただ聴いている。
一年の時には、羨ましげに上級生達の踊る姿を眺めていた。
去年は、同じクラスの男子から誘われたものの、いざとなると恥ずかしさが先に立ち、とうとう踊りはしなかった。
今年もただ見物するだけで終わってしまうとばかり思っていた。
なのに今、私の隣には、よりにもよって『彼』がいる。
一曲終わり、再び同じステップを踏み始めてからも、私はなんとなく信じられない気持ちでいた。
しかし、彼がガッコウで女子と、それもこの私とフォークダンスを踊るなんて。
実際にこうして踊っていながらも、私には今ひとつピンと来ない。
それにしても……。
どうして彼は私を誘う気になどなったんだろう。
ふと閃いた時、音楽はいよいよクライマックスを迎え、何度も繰り返された音楽が遂に鳴り止んだ。
ダンスは終了した。
生徒は団席前まで戻って下さい、とアナウンスがある。
「じゃ、俺。あっちだから」
彼は緑の団席を指さした。青団とは方向が違う。
初めて守屋君の顔を見つめた私に、彼は、
「楽しかったよ」
と、一言呟くと、そのまま背を向けた。
走ってゆく彼の背中をのろのろと団席に向かいながら私は目で追っていたが、すぐ見失ってしまった。
整列してからも私の頭の中には、あの旋律が鳴り響いていた。
彼の行動はいつも唐突であると思う。
去年の学祭の打ち上げの時も、暮れのパーティーの時もそうだった。
それなのに、普段は私のことなど眼中にない。
クラスが別れてしまってからはもう、彼の心からは私の存在など消えてしまったものとばかり思っていた。
今日のことも彼の単なる気紛れなのか……。
それでも私は彼と踊れたことが、素直に嬉しかった。
高校最後の体育祭。
楽しかったよ──────
何気なく呟いた彼の言葉が、私の耳にはずっと快く残っていた。
***
「あ、守屋君」
「……神崎さん」
体育祭の翌々日の放課後。
きちんと折り畳まれた彼の学ランが入っている白い紙バッグを手にして、私は靴箱の前で彼を待っていた。
「これ、ありがと」
「クリーニングしてくれたの」
中を覗いて、彼は、
「そんなことしなくても良かったのに」
と、呟いた。
「どっち帰んの?」
「え、久麿大裏から国道に出るけど……」
「じゃ、途中まで俺と同じ」
「守屋君、チャリじゃないの?」
「チャリは超遅刻用の時だけ。いつもは歩きだよ」
そんな会話を交わしながら、彼と私は並んで歩き出していた。
彼と一緒に歩くのは何も初めてではないのに、私はやはり意識している自分を感じている。
制服姿の彼と並んで帰るなど、予想も出来なかったシチュエーション。
「ベンキョーしてる?」
彼がおもむろに口を開く。
「そうね……。まあ、何とか」
「不調なの?」
一言軽く尋ねてきた彼に、私は思わず目を伏せながら微かに頷いた。
春休みを物思いに耽っている内に、とうとう何の準備もしないまま受けてしまった三年最初の実力考査の上位者一覧に、私の名前はなかった。
数学・化学に世界史と、三科目にわたる私の点数はかなり悲惨なものだった。
私はそのショックから未だ完全には立ち直れずにいる。
「私ってさ、ダメなのよね。一回落ち込んじゃうと、とことんまでのめりこんじゃって。勉強しててももう、駄目かな、なんて……」
「神崎はさ、繊細すぎるんだよ」
彼は穏やかにそう言った。
「何でもきちんと完全にしないと済まない性格、してんじゃん。それで人前では絶対弱みを見せまいとして」
彼は呟く。
「そのくせどっかもろいだろ」
「守屋君……」
「あんまり気を張るなよ。まだ三年なったばっかだしさ。ま、ほんとは神崎さんにエラソーなこと言える立場じゃないけどな、俺は」
そう言うと、彼は笑った。
緑で囲ってあるグラウンドの角まで来て、彼は左に、私は右へと別れた。
繊細……。もろい……。
国道へと通じるその裏道を一人歩きながら、私は彼と交わした短い会話の全てを何度も心の中で反芻している。
女友達でさえ、私のどうしようもなく弱い心のひだを理解してくれている人間が、果たして何人いるだろう。
私はいつも独立独歩の、涙など見せない女だと思い込んでいる友人の方が大半のような気がする。
そう振る舞っているのは、確かに私自身かもしれない。
けれど、彼は、そんな私の虚勢をも見抜いていたというのだろうか。
いつ……どうやって──────
そう考えて、私は、改めて彼の真実を思い出していた。
彼は、世慣れた遊び人……。
そして、彼は。
ただ一度だけとはいえ、私の口唇をしっている……。
国道沿いでバスを待ちながら、私は彼のことだけを考えていた。
何故、ダンスに誘ったりしたの。
どうして……優しいの……。
彼にはっきりとそう聞けたら。
もう心を偽ることはしたくない。
私は彼を愛し、のみならず、彼の愛を得たいと、そう欲している。
けれども結局、私はそんな自分を持て余すだけ。
体育祭は終わった。
彼と私を繋ぐものは再び何もなくなってしまった。
そしてまた、受験一色の日々に戻ってゆく。
次の日曜には模擬試験も待っている。
結局、地道にただひたすら勉強するしかないのか。
この時期に恋をしようなどと思う方が間違っているのか……。
疑問に思うことだらけなのに、答えなど出るはずもない。
そして、これが受験生の現実というものかもしれない。
それは私にもわかっている。
けれど、やはり割り切れない想いを私は抱えていた。
私は自分に正直に生きてみたかった。
飛べない自分はもううんざり。
可能性を信じてみたい。
種々の欲求を私は秘めていた。
しかし多々、理想と現実のギャップに打ちのめされているのも、哀しいかな事実だった。
***
六月某日の昼休み。
廊下側の自分の席で、教室後方の黒板に解いてある四時限目の数学の解答をノートに写している時だった。
「神崎さん」
私を呼ぶ声がして、顔を上げた。
その時。
私は心臓が止まるかと思うほど、びっくりしてしまった。
声の主は紛れもなく『彼』だったから。
「何か用事?」
それでも、廊下側の窓越しに立っている彼に向かって素知らぬ風に私は尋ねた。
「頼みあるんだ」
「頼みって、私に?」
「英語のノート、コピーさせて欲しいんだけどね」
彼はいつもと変わらない声をして、私に言った。
「試験近いだろ。俺、普段やってなくて、授業もろくに聴いてなかったし困ってんだ。二組だったら英語、かなり先行ってんだろ? どうせコピーするならその方が何かと助かるし、さ」
「私のノートで予習さぼろーってわけね。呆れた」
そう言いながらも、私は鞄からノートを取り出していた。
「あ、英Ⅱと読解だけじゃなくて。英作文もいいかな」
「今日は授業ないのよ。明日持ってきてあげる」
「悪いね」
そう言いながら彼は、パラパラとノートに目を通している。
「さすがだねえ。赤で細かく書き込んで、ノート整理もカンペキじゃん」
「エーゴが出来ないことには話にならないもの、私はね」
「やっぱ有名私大受けんの?」
「ううん。……国立一本」
「やるなあ。落ちたらどうすんの」
「浪人するしかないでしょうね」
軽く首をすくめてみせる。
「ま、神崎だったらダイジョーブだよな」
と、彼は笑った。
「ともかく助かった。明日返しに来るからさ」
「忘れないでね」
「わかった」
そう呟いて、
「……あ。神崎」
「え?」
彼は、手にしていたモノを私の前に提示した。
「これ、久磨予備の夏季講習のパンフ」
「久磨予備校?」
「そう。ここ、特待制度があって、A判定なら全額免除。B判定なら半額負担だから、受けてみろよ」
「えー、でも難しいでしょう」
突然の彼の話にはビックリする。
「神崎なら大丈夫だって」
「でも……」
「ま、軽い腕試しにはいいんじゃないか」
「……そうね。落ちても、夏休みはどこか予備校に通うつもりだったし。ここにするわ」
「そうしろよ。俺もここ行くし」
そう言うと、彼は笑んだ。
守屋君。
何故、私にそんな話を勧めてくれるの……?
そんな疑問符を浮かべる私に、「サンキュ」 と一言を残し、彼は私のノートを小脇に抱えて今度こそ隣の教室へと消えた。
守屋君……。
気付かれているのか。
それとも単なる彼一流の気紛れなのか。
彼の本心がわからない。
どうして。
私に……。
思考がぐちゃぐちゃに混乱していく。
ああ。
けれど。
知っている。わかっている。
私は彼を愛している─────
私はいつまでも彼が立っていた廊下の窓際を見つめていた。
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