十七歳・残された日々(5)ずっと、いつまでも。

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十七歳・残された日々(5)ずっと、いつまでも。

 それにしても。  どうして私はここにいるんだろう……。  数学の授業が終わった後、彼は予備校前のセルフカフェで、私の好きなベーグルサンドとアイスラテという軽いお昼をおごってくれた。  それだけでも充分、事件なのに、いくら予備校から歩いていける距離だからと言って何故、彼は私を自宅へ招いたりしてくれたのだろう。  けれど、誘いの言葉をかけられたからと言って、それにのこのこと附いて行ってしまう自分も自分だとつくづく思う。  彼の音楽の趣味なのか、部屋にはテンポのいい軽快な洋楽が響いている。  しかし、耳を澄ませば微かに蝉の鳴き声が聞こえてくる。ここは、街中にしては緑豊かな場所。  一歩外に出れば、じりじりと照り付ける真夏の太陽と、うるさいくらいの蝉の声が全てのような風景だった。 「……退屈?」  彼がふと雑誌から目を離し、私に問いかけた。 「え、ううん。そんなことないけど私……私、男の子の部屋に来るの中学卒業以来かなあ、なんて……」  私はぼんやりと思っていたことを、馬鹿正直にもつい口にしてしまった。 「へえ。じゃあ中学の時は彼氏、いたんだ」 「違うの。中三の卒業間際、仲のいい男女五人組でつるんでててね。春休みに五人で野球観戦や、絵図湖(えずこ)で遊んだりとかして。男子の家にも遊びに行ったりしたのよ、みんなでね」  と、私は言わなくてもいい余計なことを口にしてしまったのかもしれない。 「じゃ、男とつきあったことないの」  と、彼は一言、投じてきたのだ。  とりたて好奇心があるとも思えない声と表情ではあったけれど、私は一瞬、何と答えていいものか言葉に窮してしまった。 「ないこともない、けど」  高一の夏、実に僅かな日々で別れた相手のことを思い出しながら、私は言葉を濁していた。  つきあったといってもおままごとのような他愛ないもので、数の内には入らないとは思う。  しかしだからといって、「つきあったことがない」などと答えたならば、去年の冬のあの出来事が、私のファーストキスだったと彼に白状するようなもの。  それは避けたかった。  何故ということもないが、やはりそんなことは知られたくないことなのだ。  ましてや、海千山千であろう彼には……。  ふと見れば、彼は雑誌を手にしてはいるもののページは広げたまま床の上に放りだし、片膝を立てぼうっと何かを考えているようだ。とっくにCDが終わっていることにも気付いていないのか、動こうともしない。  部屋は再びエアコンがフル回転する音だけが聞こえるだけで、静寂に包まれている。  彼は今、何を考えているのか……。  そんな想いを感じながら、私もまたこの静かな時間を楽しんでいるように思う。  自分が何故、この場所にいるのか未だわからずにいながらも、私にはこの空間、この時間はそう居心地の悪いようには感じない。  最後の夏。  それを私は、今このひとときだけかもしれないにせよ、守屋君と二人で同じ時間ときを共有している……。  巡り合わせの妙を私はしみじみ感じていた。 「あ…また煙草、吸ってる……」  その時、私はつい言葉にしてしまった。  彼はどこに隠し持っていたのか、いつの間にか煙草を口にくわえている。 「どうしてそんな顔するの」  火の点いた煙草を指で挟んだまま、彼はそう言った。  私は、未だ彼の喫煙風景には目を奪われてしまうらしい。  彼の持つ陰に煙草という小道具はよくマッチしている。  そして、それを吸う時の彼の表情はストイックというのか、一種セクシーさすら漂わせているように思えるのだった。 「守屋君て……いつから煙草、吸ってるの」 「中学あがった頃から」  眉一つ動かさずそう答えると、彼は一息白煙を吐いた。  むべなるかなという答えではあるものの、ほんとに。  私は呆れ顔をしながらも何となく、彼の傍らに投げ出されている煙草を一本、手に取ってみた。  そして、それを指で玩びながらふと、遊び心で口にくわえようとした時、横から彼がそれを取り上げてしまったのだ。 「女の子が煙草なんて吸うもんじゃないよ」 「いいじゃない、一本くらい」 「ダメ」 「自分はヘヴィスモーカーのくせしてえ」 「俺はいーの、男だから」 「何で女の子はいけないのよ」  人前で、ましてや男子の前で煙草なんて吸うつもりなど更々なかったのに、成り行き上、引き下がれなくなってしまった。  そんな私に彼は一言、言ったのだ。 「キスした時、男としてるみたいだろ」  私はとっさには何て返していいのかわからない。 「じゃあ。守屋君って男同士でキスしたことあるんだ」  それでも、ジョークのふりして言ってみせる。 「そう。俺、ホモセクシュアルなんだ」 「それでどうして女の子とキスしたりするのよ」 「実はバイセクシャルだったりして」  ジョークなのか本気なのかわからないような言葉を、淡々と彼は口にする。  そして、次の瞬間。  彼の瞳が私を捉えた。  彼の視線と私の視線とが奇妙に交錯しながら、その場の空気が一瞬にして変わってしまったことを、私は悟った。  彼の表情が、変わる。  薄いフレーム越しに心持ち目を細めた彼の顔が、すっと近づいてきたかと思うと、まるで私の気持ちを探るかのように私の口唇(くちびる)を掠め、そして離れた。  逃げる(いとま)もない一瞬のその出来事を、私は瞳を開いたまま、身動きもせず受け入れていた。  そして私は、再び彼の瞳の中に、自分の姿を見る。  彼は片手でゆっくりと、眼鏡を外した。  彼の膝の上にあった彼の右手が私の首元にかかり、彼は今度こそ私の口唇を覆ったのだ。  それは、あの冬のものとは比較にならない口づけだった。  脳髄の奥へと血が昇ってゆくかのような感覚を、私は感じている。  ヘヴィな、長く、狂おしいその接吻(キス)を、私はどうしていいのかわからずに、ただありのまま受け入れていた。  なにも、何も考えられない。  ただ私と彼だけが在る。  そんな時間が流れてゆく……。  しかし、私は。  私は、その次に訪れるべきことを知らなかったのだ。  どうして……。  どうして、こんなこと、するの……?!  私は度を失っているに違いない。  何も考えられず、今、何が起きているのかも私には、わかっていないのかもしれない……。  躰の力は抜けてゆくかのように、ただ微かに震えている自分を意識しながら、私は今更のように、彼が男であったことに驚いていた。利き腕でもないのに彼は、左手で器用に私の自由を封じながら、物慣れた仕草で私を探ってくる。  言葉も出せずにいるのに私は、吐息に近い声が漏れ出そうになるのを必死で抑えている。  時折むずがるように顔を背けながら、流れてゆく時を受け入れることも拒否することさえ出来ないまま、ただひたすらに堪えている。  それは、私の知らない情景だった。  私は。  私はどうして女なんだろう……。  哀しいくらいに自分が女であるということを、彼という男を通して、私は認識している。  冷たい彼の手を口唇(くちびる)を白い生身の素肌で感じた時、私は言いようのない感覚を覚え、そして私は、はっきりと自分の中の女を見たのだ。  守屋君……。  彼は、私の胸中からふと顔を上げると、私の顔に手を当て、前髪をかきあげていた。  無言のまま、彼は愛おしそうに私を見つめている。  ──────見ないで。  そんな瞳をして私を見ないで……!!  彼の微妙なその表情に堪えられなくなり、私は仰け反るように顔を背け、瞳を閉じた。  そんな私の背中に彼は両腕を滑り込ませると、次の瞬間、息も出来ない程の力で私を抱き締めたのだ。  その瞬間。  私は、身の内を何かが走ったような、気がした。  彼は。  彼は本当に私の姿を見ているんだろうか……。  ずっと。 『玲美さん』の存在を知った時からずっと私の脳裏にこびりつき、離れないその疑念(おもい)。  彼に口づけられながら私は、凍り付くような、その想いに囚われている。  彼の瞳は私の瞳を通り越し、その奥に亡き彼女の幻を見ているのではないか──────  その時。 「や…いやっ……!」  その一瞬、私は初めて反射的に、全力で彼の胸を押しのけていた。彼が更に奥深く私を探ってきたその瞬間(とき)だった。  視線と視線が交錯する。  今にも泣き出しそうに、顔を背けた。 「嫌…なの。もう……」  絞り出すように、掠れた声でそう言った。  彼はゆっくりと私から身を離したが、彼の手が再び私の胸の前に伸びてきて、一瞬、ビクリと躰を震わせた。 「ごめん。もう、しない」  しかし、彼はそう言うと、ブラウスの胸のボタンを一つ、一つゆっくりとはめていく。  声が出ない。  私は何も出来なかった。  こんなにも。  こんなにも私は……。  彼を拒む力も、何が起きるのかさえもわからなかった私は、なんて無力で無知なんだろう……。 「泣くなよ。……な」  あの去年の秋の放課後の彼のあの言葉を、再び、私は彼の口から聞いていた。  彼はじっと私を見つめ、時折私の長い髪を梳く。それはまるで幼な子をあやしているかのように。 「神崎が泣いたら俺、どうしていいかわかんないよ……」  私に向けられる、彼の静かな凪いだ言葉を聞きながら、私は彼の真意を推し量ろうとしている。  私は。  でも、私は……。 「私……。帰る」  私は結局そう呟いて、身を起こした。  私には無理なんだ。  私はやっぱり飛ぶことなんて出来ない。  私は……。  惨めさに打ちひしがれ、その部屋を後にしようとしたその時────── 「行くな! 神崎」    背中で彼の声を聞き、瞬間、ビクリと躰が震えた。 「もう俺を……。独りにしないでくれ」  絞り出すようにそう言うと、 「ずっと。ずっとお前が好きだった」   私を後ろから抱き締めながら、守屋君は呟いた。 「愛してる」  あの冬の夜からずっと聴きたかったその言葉を、確かに彼の口から私は聞いていた。 「本当に信じていいの?」  声が、震えた。  答える代わりに、彼は私を更に強く抱き締めた。  背中で彼の胸の鼓動を聞いている。  また、涙が溢れてくる。  彼は私を正面に向かせると私の顎を軽く持ち上げ、そしてその長い指でそっと私の涙を拭った。  そんなことしないで、守屋君。  涙、止まらなくなってしまう……。  ゆっくりと彼の胸に顔を埋める。  そのまま抱き締めていてくれる。  守屋君──────  ずっと、ずっと。  いつまでも。
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