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「ああ! ない!」
情緒不安定でそそっかしい翔太は、予期せぬ事態が起きた時に声が大きくなり、主語を忘れてしまう。
そのあまりにも大きい声に、すぐそばで眠っていた真彩はゆっくりと上体を起こした。
真彩の身長は一七三センチあり、座っている翔太は一六〇センチしかない。小さな背中を見下ろす形になった。
「ないって、何がないの?」
「何がないって決まってるじゃないか。ほら、あれだよあれ!」
「あれって言われてもわからないよ」
そう言いながらも、翔太が何を探しているのか、真彩は分かっていた。
けれど、焦った様子でそれを探す翔太の姿が、子供っぽくてとても可愛らしい。翔太の可愛らしい仕草は、知り合って九年も経つ今も飽きることはなく、むしろドツボにはまって抜けられなくなっていた。
「ほ、ほら! あれだよ! 毎日書いてるやつ。いつも俺が持ってるやつだよ。真彩に言われて始めた……」
「もしかして、日記のこと?」
「そう! それだ! 日記だ! ああ、やっと思い出せた」
真彩が言ったのだから思い出せていないが、翔太はひどく安心した様子だ。どうやら思い出しただけで満足したようだ。
「それで、日記がどうしたの?」
「……あれ? 何だったっけ? なんで俺日記の話してたんだっけ?」
翔太の記憶能力には極端な特徴がある。
体の動かし方や楽器の演奏など、言葉で書き表すのが難しい記憶、手続き記憶は優れている。しかし、自分が経験した出来事をストーリーとして記憶する、エピソード記憶が完全に欠落していて、自分がいつどこで何をしていたか、すぐに忘れてしまうのだ。
長い付き合いの真彩は、それを自分の都合のいいように利用している。
「外に持って行った日記を、どっかに置いてきて忘れちゃったんでしょ」
「あれ? そうだったっけ?」
「そうよ。さっき、忘れてきちまったって叫んでたもん」
事実を捻じ曲げられているが、記憶力がない翔太には真彩の言っていることを検証する術を持たない。
「そうか……なんて俺はドジなことをしまったんだ。日記を忘れることだけはしないように気をつけてるのにな」
「私がそばにいたら忘れることがないのに、私を置いていって他の女と遊んでるから忘れ物するんだよ」
「は? 俺は他の女と遊んだりしねえよ」
「絶対に嘘よ! 最近よく翔太のスマホに、女の声で電話かかってくるもん!」
「本当か? それは誰なんだ?」
「私が分かるはずないじゃない。どうせその辺でひっかけた若い女なんでしょ。私みたいな30手前の年増には飽きちゃったんでしょ!」
決めつけるような口調で言われても、翔太は自信を持って否定する。
「俺は浮気なんて絶対にしない。たとえ覚えてなくても、それだけは間違いないはずだ」
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