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2.羽を汚す
私に羽が生えたことは町に颯爽と知れ渡った。
旦那さんが早速羽の生えたパンを考案し、エンジェルパンと名付けた。
――私も、羽人も天使じゃないですよ。どっちかというと鳥です。
ほら。
と、首をカクカク鳩の真似を披露しても、旦那さんは首を横に振った。
――タアヤ、羽の生えた君は天使そのものだ。
――そうともよ~。
奥さんは目閉じて深く深く頷いていた。
店がまたいっそ忙しくなる。
紙袋の音。
背中でガサガサ鳴る元気な癖っ毛と、共謀して羽。
――羽の子は?
――私です。
お客は私に会いに来る。会いに来て、失礼にがっかりして帰った。
――普通じゃない。
――タアヤちゃん、何にも変わらないのね。
そう。私は普段羽を小さく畳んで、サイズ大きめの服で隠していたから、お客の目には天使でも羽人でもなかった。
――羽みせてよ。
と、しつっこいのは年配のおじさんとおばさんで、常連だったから断れもせず、私は背中を捲ってみせてあげた。
純白の羽に白いブラ。
――ごめんよ。
と、頬赤らめて逃げるようにおじさんは紙袋忘れる勢いで店を出た。そんなに可愛くなれるんなら、羽をみる前からそうならいいのに。
――あら、あら。真っ白。綺麗ね。羽、抜けるの?
――それがね、抜けません。ブラッシングしたり、洗ったりしても。
――あら、勿体ない。
――飛ばないと、抜けないのかもしれません。
おばさんは可愛くなかった。
☆
少年は現れなかった。
――パンを買いにおいでよ。
あの返事を、私は聞いただろうか。
店を終えて夕刻以下の時間。散歩をする、道々、振り返る人の数。
自転車で擦れ違いざま、背中を触られる。
決まって二人乗りだったから私は腹も立てなかった。
二対一の不戦敗。あなたの負けよ。
――パンを買いにおいでよ。
どうしてそう、誘ったんだっけ。
洗面器。金属製の。中に渦巻きが描かれていて、この町みたいで。
運河に溺れた私たちみたいで。
あの洗面器に、あの子は街灯を浮かべてた。
直接、ものをみることを怖がっていたのかもしれない。
汚れた体。
防塵マスク。
あの子は採掘場で働いているんだ。
伯父さんに連れていってもらったことがある。
町の外の採掘場。
巨大な穴にレール、たくさんの貨物。
聞こえる爆発音、石を叩く音。
――発光石は滅多に採れないよ、熱石ばかりさ。そして極稀に温度石。
私は伯父さんに訊ねた。
――温度石って?
温度の溜められる石だと教えられた。
燃やしてエネルギーにする熱石とは違う。
人肌の温度を溜められる石があるのだと。
――どうするの、それ?
――冬場にポッケに入れるのさ。手を繋げるよ。
手を繋げるよ。
あの言葉が思い出される。
なんだか、悲しい言葉。
☆
背中の羽は日常に馴染んだ。
お風呂で羽を洗うのも、乾かしてやるのも楽しい。
羽は一向に抜けない。
これだけ全部抜けたら生活に困らないのに。
自分の羽に触れる時、自然と自分を抱きしめる格好になった。
耳を自由に動かせるみたいに、羽は手足を動かす感覚にひとつの枝分かれを生んだ。
気分がいいと裸のまま部屋を飛ぼうとした。
羽が落ちればいい、抜けて落ちればいいと、盛大に飛んだ。でも部屋には風が吹かず、飛ぶことが出来なかった。
――タアヤちゃん最近サービスいいわね。
店ではまだまだ羽の子は大人気だった。町の外からもお客が訪れる。私は背中の開いた服を着て、バサバサと羽ばたいてみせる。
人気は人気を呼んだ。
私はもうすっかり、羽人になったつもりでいた。
通りすがりに背中を撫でられても、プラスとマイナスを頭で弾いて笑った。
しかし。
――飛べやしなかったのに。
抜けない言葉が心臓に刺さった。抜けない羽と同じに、いつまでも抜けなかった。
また、二対一、反則負け。
そう、心を自前の言葉で諭しても、ズクズクと脈打って抜けない。
お客の二人連れ、若いカップルだろうか。
――ここのフランスパンいけるのよ。
と、男に言ったその口で。言った。
――ありがとうございました、またおいでください。
その女は私をみなかった。
羽を汚したのは、その日のこと。
☆
純白の羽に、掌の色がズルズル脱皮したみたいに移っていた。
部分的で彩色というより、色の嘔吐のようだった。
飛べなかった私の羽は汚れるんだ。
遠い町の上空、羽人の国に住めなかった私の羽は、人に汚されるんだ。
自分の心が色を吐くんだ。
自分を抱き締めて羽を触った。
自分の指の温度がとても、冷たかった。
温度を溜められる石のことを思った。
ポッケで手を繋げる、石のこと。
あの少年のゴーグルと洗面器が景色を往来する。
私は、そこにいたかった。
爪が背に食い込む。
赤い血で、羽は染まらなかった。
――パンを買いにおいでよ。
どうして。
誘ったの。
あんなに汚れた格好の子。
清潔なパン屋に、来られると思ったの?
私のあの言葉は、少年から抜けただろうか。
私は汚い。
☆
夕刻以下の時間。
散歩中、猫を二匹追い抜いたスピードで、私は涙井戸にいた。
レンガ造りで、重い蓋には石臼のようにハンドルが付いている。回転させて少しずつ開いていく。
井戸に絡まる蔦状の植物が常に爽やかな空気を醸し、小さな青い花が咲いていた。
かしましい自転車屋を曲がった路地の行き止まりに、町の涙を溜める井戸があった。
町の歴史と同じ時間を生きたと言われる。
そこには涙しか落としてはいけない。
涙しか。
ゴーグルを破って。
涙を洗面器から溢れさせて。
井戸の水位は陽が届く距離で、泣きべその私が映っていた。
――大きな洗面器。
呟いて、羽を映す。
振り向いた。
――羽、映ってない。
涙井戸に、私の汚れかけた羽は映っていなかった。
その日、私は決意をする。
新しい商売を思いついた。
「汚し羽、始めました」
橋の入口にブリキのバケツを置いた。
一番客は切符のいいゴンドリエーレ。
縞のシャツが筋肉を紹介していた。
――全然、色が着かないぜ。
彼は私の羽を濯ぐように撫でた。
涙井戸を覗く、私は何処にもいない。
――お兄さん、綺麗なんですよ。今日は。
――ふうん、ま、こんな仕事だ。心の汚れは運河が浚うよ。
――羽、運河で洗えば染まるかな。
――かもだぜ。
ウィンクをして、一枚の銅貨をバケツに投げてった。
チャリン。チャリン。チャリン。
パン屋が休みの日、あなたの汚れを試す羽。
私は商売繁盛。
――お前、ドロドロだな。
――だって今日嫌な客つくんだもん
――これからのこと?
――心配性なのよ。
――どうして、坊やの手で汚れるのよ!! 馬鹿にしないで。
――初めてだって嘘、ついちゃった。ごめんね。いっぱい汚れたね。
――絡んできたのはあっちなのに、喧嘩って心汚すのな。
人は汚れていた。
悪戯で私の頭にタバコの輪っか煙を吐いた不良少女も、高級なスーツ姿の紳士も。
指の色がそのまま移ったり、群青色、藍色、紫、赤、意識が飲み干せないドロドロの色たち。
私は汚れを愛した。
お風呂場で、羽の汚れを落として、純白に近くなった羽の横をシャボン玉が何も含まずに飛んでいた。
羽人の羽を拾うより割のいい商売。
――飛べやしなかったのに。
大丈夫、お前だけじゃない。
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