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3.背中合わせの邂逅
汚し羽は町の観光名所のようになった。
嘘をつくと手を喰われてしまう口と同じ。
心の汚れが羽を汚す。
心の綺麗は羽を汚さない。
賑やかに。
みんなで汚す。
汚し羽は楽しかった。
羽を汚した人の方が、汚さなかった人よりもおっきくみえた。
――パン屋辞めてこっちずっとやれば?
と言われる。
――パン屋好きですもん。
と、私は微笑んで断る。
最近、羽汚しに慣れて表情が増えた。いや、表情の奥行きが増した。
笑顔のお終いも、怒りの終点もない。
みんなの汚れ、私の汚れ、羽は涼やかな風を受けて揺れる。
汚れで濡れた羽は不思議と重たくならない。
人の汚れに、質量はない。
お風呂場で濁る水も、色とは一体、なんなのだろう。
シャボン玉は羽を匿うこともせずにただ飛んだ。
――パンを買いにおいでよ。
あの少年は現れない。
私はあの子のために、飛べなかったのに。
あの子のために羽を汚し続けているのに。
☆
作業服の少年、防塵マスク、ゴーグルの奥の目、真っ黒の軍手。たくさんのポッケにあの石はあるかな。
――汚れてる、うちはいつか会えると思う。
そんな気がしていた。
羽を乾かした後、触る。
自分を抱き締める。
この手は、ずっと、この手であるのか。
少年のことを思った。あの少年は私の羽を汚すだろっか。
――全部、銅貨も銀貨も運河に投げていい。
それだけを知りたかった。
私は、あの子を汚したのだろっか。
お風呂場で汚れた羽を洗う。
色は排水溝に消えた。
何も残さず。
シャボン玉はいつものように……。
――あれ?
一枚、小さな私の羽がシャボンの泡に包まれていた。
――抜けた?
☆
窓を開ける。
夜に身を乗り出して時計台をみる。
発光石の数、昨日と同じ。
だけど、その次の位置に、なにか灯りがみえる気がした。
羽がソワソワする。
――風が吹くのだわ。
あの少年だったらどうしよう。
次の羽人。
遠い町の空、上空へ。
この町を飛んで。
あの少年だったら、どうしよう。
慌てて身支度をする。
スッポリ頭から被ったワンサイズ大きめのワンピース。
背中で羽が畳めない。
風に呼ばれている。
――ん、っも!!
背中のファスナーを引き裂いて部屋を飛び出した。
羽が部屋の埃を浮かせていた。
店のシャッターが降りている。裏口から路地を抜けて、橋の欄干へ。
――いた。
☆
――パン屋の?
口をきいた。シャボンの泡に閉じ込めて飼いたい音色だった。
欄干に腰かけて、洗面器に月を浮かべてそれをみていた。
――そう、パン屋の。
ドキドキと心臓が鳴る。
そのまま羽が躍った。
ドキドキ、ザワザワ。跳ねた癖っ毛も一緒に。
街灯の灯りが少年をくり抜いたように、汚れきった全身が神様の描いた絵みたいだった。
今日もバンダナだけは違う柄で、ゴーグル、防塵マスク、ポッケだらけの作業着。真っ黒な、軍手。
――こんな夜中に、眠れないの?
いえ。いいえ。眠ってはいられないの。
――違うの、風が吹くわ。
――そうか。君が言うのなら、僕の予感も間違いじゃない。今日はどうも洗面器に波が立つんだ。そして、背中がムズムズする。
――その前に。
――その?
――その前に、羽を汚して欲しい。
――知ってるよ。何度か遠くからみてた。あんまり良い景色じゃなかったね。
少年は洗面器の月に手を伸ばした。
雲がかかって街灯の灯りがいっそ、少年をくり抜く。
――ごめんなさい。
――君はパン屋がいいよ。
――だって!!
――うん?
――買いに、来ないじゃない。
ザプン。運河と洗面器が波打つ。
――だって、脱いで行ってもわかってもらえないだろう。ああ、丁度いい。
少年は顔の一切を脱ぎ捨てた。煤けた顔に埋もれた瞳が二個、発光石より光っていた。
バシャン。洗面器の月が黒く染まる。
――こんな、顔だよ。
濡れた前髪から垂れた滴が橋を転がった。
――これで、行けるね。
少年が微笑む。
私は、羽が汚れるのを感じた。
――あれ、羽に色が。
少年も気付いていた。
涙井戸に、飛んで行きたかった。きっと羽も色を持って映る。
☆
風が吹いた。
少年のための風だ。
路面から空へ、風の階段。
――羽はいいよ。
いつの間に。
少年は欄干を降りて、私と背中をくっつけていた。
――僕はパンを買いに行かなくちゃいけない。
作業服に着いた砂塵が私の羽にたっぷり、混じった。
☆
――お薦めは?
――エンジェルパンが一応人気だけど、味はそうでもないの。味で言うなら明太フランス、これ最高。
――じゃ、それ。
――ありがとうございます。ひとつ、訊いてもいい?
――うん。
少年は清潔なジーンズにストライプのシャツを着て、普通の眼鏡をしていた。ジーンズのポケットが膨らんでいる気がした。
――温度の溜まる石って、持ってる?
――ああ、これ。
少年は丸く群青色の濃い石をポケットから取り出して私にみせた。
――冬場に重宝するんだけど、あげよっか?
――いいの?
――羽の方がきっとあったかいから、さ。
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