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今朝も食卓には和食が並んだ。米、味噌汁、目玉焼き、焼き魚、梨、よく見れば男の分の米は朝は少なく、それで食べるのは精一杯らしかった。
窓の外は今日も快晴で、早朝がどうだったかは知らない。青年は四日目にして早朝に目覚めることはなかった。
「出て行かないんだね」
味噌汁をすする間際、男が青年を見ずに言った。青年もまた米を口に運ぶ前だった。
「理解はあります」
それは、酷く。思えばその経験しかなかった程に。
答えた青年を男が見返したかはわからなかった。口に入れた米が消える前に魚を含んだ。青年こそ、男の反応を確認出来なかった。
男は短く「そう」とだけ答えていつもの静かな朝食時間が過ぎた。
食事を終え、男がすぐに食器を洗う。続けて家事を済ませた男は仕事部屋に籠る。青年は好きにする、言われた通り、好きなように過ごす。
男こそ、聞かなかった。見たはずのものを、なにも言わなかった。
青年は今日も玄関先のテラスでベンチに座った。緑と青、土の色、そればかりの景色を遠く眺め、過ごす。
あまり長くそうしてはいられなかったが、これまでの青年にはこんな時間はまるでなかった為、多少新鮮でもあった。人が住んで、こんなにも静かな場所があるとも知らなかった。無駄に過ぎていくだけで急かされてばかりの時間もないかのようだった。
これ程静かでは意識もそれず、ベンチの背もたれにある自身の背中に無意識にも集中してしまう。青年にとって唯一であったが、今ではなにより過ぎ去りたい。いずれはきっとそう思わずにいられる時が来るのだろうが、今ではない。予定では、もうとっくになくしていられたはずだった。
男は見たはず。けれどなにも言わなかった。それだけ、男にとってみられたくはないものを、自分が見てしまったのかもしれないと青年は思った。
こんな山奥に、けして似つかわしくはない男が住み、暮らしている原因がそれだとしたら。
余程のことがあったのかもしれないが、その程度なのであれば青年自身にはなんの障害にすらならなかった。いや、それが原因の一つであった地獄ならば知っている。けれど、自分自身に起きたような地獄が、そう簡単にあるようには思えなかった。
あんな地獄が身近にあるはずもない。あるのだとしたら、こんなにも苦しんだはずもなかった。
――かった。青年は、はっとした。
思えばこの数日、あの日々のような自分はどこにもいなかった。たった四日前までの、まるで腱を絶たれて灼熱の地面を這うような、あの、全てが。
青年の頭と、背中と体に残るもの以外、あれ程つきつけて来たなにもかもが、どこにもなかったのだ。
こういうことなのだろうか。男が、ここに暮らしている理由も。ここにはなにもない。静かな土地に山、森、海。空が覆った下に、静かな家。男はそれをわかって、青年にもそれを与えたのかもしれない。
これで、これで自分自身の中から消えていけば、やがて時間が解決するのなら。
終わらせる以外で、そんなことが出来るとは思ってもみなかった。いや、終わったことにすら出来るのかもしれない。それは自分自身、四日前にその自分も、もういなくなった予定だったのだ。
吸い込んだ空気が肺の手前で止まって、急に呼吸の仕方を忘れたような感覚になった。
青年は足早に屋内へと戻った。背後、濃い青の空に灰色の鳥が渡った。
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