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※  立ち上がるのも漸くの体を男が引き上げ、支える動作のまま、青年の膝が笑ってまともに歩けもしないのも構わず男は進んだ。どこに向かうのか、青年の目では四方が同じにしか見えていなかったが、男は確かな目的へと進んでいるようだった。  雨に濡れた葉に触れる度、跳ね返った雫が顔に飛んだ。それに瞬く間にも男は進んで、青年の足が縺れる暇もなかった。  頬に触れる男の黒いウインドブレーカーが雨でじっとりと濡れ、落ちた葉が張り付いている。フードをかぶった頭は顎先以外確認もしていない。  やがて森を抜けた。それでも地面が土と砂利のままで舗装されていない道が続いた。平地と山と、森、畑に、小川、か細い雨と白けた靄に包まれて、ぽつんと民家が建っていた。くすんだ木目が湿気で黒ずんだ、少しだけ経年を感じるロッジハウスがひとつだけ。  男は青年を引き連れてロッジハウスへ半ば駆け込み、青年が床に倒れ込んだのと同時に内鍵を閉めた。ほんの一瞬、青年は鍵の閉まる音に警戒心を働かせたが、自分にはもう、その必要がないことを思い出すとそのまま床で呼吸を続けた。森の中で感じた、あのにおいがする。この家にも、男にも染みついたにおいがした。  青年が床に寝転んだままでいると、背後で小さく男が息を吐いた。ほんの小さな、ため息のようだった。  殆ど床に這った体を、男はもう一度、腕を引いて持ち上げた。二度目は少し手慣れた様子で、荒い。そうして半ば引きずって、青年の体をベンチに横たえた。目線にはテーブルの脚と、向かい合わせてあるもう一つのベンチが見える。頭上には窓、それ以外は、確認出来なかった。  男の足音が遠ざかった。お湯を沸かす音、陶器の鳴る音、そしてあのにおいがした。  ウインドブレーカーの擦れ合う音と足音が近づく。青年の元で止まり、テーブルにカップが置かれた。灰色のカップから湯気があがるのが見える。男にもこの家にも染みついたようなコーヒーのにおいが近い。カップの中から、香っているのだろう。 「まだ死にたいかどうか、考えて」  そう言った男の足音が少しだけ離れて、すぐに戻った。薄いブランケットが青年の体を覆いかぶすように投げられた。体に着地した風圧で、青年はそう思った。  男の顔すら確認しないままだった。ただ、カップを置いて去った男はまだウインドブレーカーを着たままで、そのフードも被ったままだった。男もまた、そうさせる気もないようだった。 「強い光が苦手なんだ」  少し離れた場所で男が言って、雨雲で薄暗い室内に弱い、暖色の間接照明が点った。弱い光が三か所。その後、マッチを擦る音が聞こえたが、それを確認する気力も、青年には残っていなかった。 「すぐに暗くなるから」  テーブルの脚の間から僅かに見える先、男はその後、暖炉の隣の部屋へと消えていった。  暫くしてから、閉じた扉の奥から僅かにパソコンのキーボードを叩く音がしていた。  季節もないような雨ばかりの空は夕暮れもないまま、曇天がやがて夜に変わった。  暖炉に揺れる蝋燭の数を数えたのは眠る少し前のことだった。  幾つかの蝋燭が火を消すまでキーボードを叩く音は聞こえていた。音が止んだ時、蝋燭は大きな二本を残して全て消えた。
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