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※  次に男が部屋から出て来たのは、夜が過ぎ、空が白みがかって来た頃だった。  酷い疲れで青年が一度眠ったのは暗い内、まだ奥の部屋からパソコンのキーボードを叩く音が聞こえていた。それから目を覚ましたのは室内がぼんやりと明るくなった頃、さほど照明の力を借りずとも視界が利いた。  横たえていた体を擡げ、座り直した。格子の窓は外側が汚れて外の世界が濁ったように見えていた。  明るくなって部屋を見渡してみると青年がいる場所は部屋の四隅、玄関から見て左手の、恐らくダイニングテーブルの役目を果たしているらしい場所だった。他にはテーブルがない、というより、青年がいるベンチとテーブルのセット以外の家具が真横のソファと、そこを照らすフロアライトだけだった。他にはなにもない、広い空間を持て余しているか、この部屋自体をそれ程使わないだけなのかもしれない。  青年がいる場所の真反対側には備え付けのキッチンがある。アイランド型で、薄い緑のタイルが印象深いがそこに生活感を感じられるようなものはなかった。だが、男は昨日あの場所でコーヒーを淹れていた。それなりの設備も、道具もあるようだった。  その、青年のいる場所とキッチンの間、玄関の扉とは少し(たが)った場所にある扉に、男は入って行った。キーボードを叩く音はもう聞こえない。  そうして少し時間が経った頃、男が入っていった扉の奥から床の鳴る音が聞こえた。  数歩、歩んで、止まった。扉が開いて、約半日経って漸く、男の頭部を確認出来た。あちこちに跳ねたグレージュの髪、年齢は二十代後半か三十代か、その不思議な髪の色も相まって年齢は不詳だが、こんな山奥にいるよりも都会のクラブにでもいる方が余程自然な風貌だった。  薄めの体にVネックの、襟口が少し伸びた白いTシャツと黒の細身のパンツ。とても眠っていたようには思えない服装だが顔面だけは確かについさっきまで寝ていたのがよくわかる。  青年と目が合ったはずだった。けれど男は構わず、まず、まだ点ったままの蝋燭を消した。暖炉の上に無造作に置かれたそれは日々使い込まれているのがよくわかる。垂れた蝋が歪な形に固まっていた。  次に間接照明を消しながら、男はキッチンへと向かった。青年には目もくれず、湯を沸かし、なにかを用意してから、キッチン左横の廊下へと消えた。暫しして戻った男の表情は少しばかりはっきりと目を開き、その前髪も濡れていた。  また、男は青年に構わずキッチンに立った。少しして青年の元にもその香りが届いた。森でも、この家に入ったからも感じたコーヒーの香りだった。  男が二人分のマグカップを持って、テーブルまで来た。挟んで、向かい合ったベンチに腰を下ろして、昨日のカップをよけて、新しいものを置いた。昨日のものより量が少ない。きっと、一人分を淹れたものを、二つにわけたのだろうと青年は思った。  男はなにも言わなかった。昨夜の分のコーヒーが一切減っていなかったことも、未だここにいて出て行かなかったことも、なにも。ただカップを片手に、まるで自分一人しかいないかのように、窓の外を眺めている。未だ白みがかった早朝の景色を、それより不思議な色をした髪の間から、眺めていた。 「一晩考えても、わからなかった」  男が昨日青年にした問いかけに、約半日かけて考え、青年は答えた。  夢の中ですら考え尽くした。けして比喩でもなく、夢にまで見て、青年は考えた。もう一度あの場所に行くべきか、もう一度戻るべきか、もう一度、もう一度。  けれど一度を終え、今、ここに居る。もう一度戻るには浅はかであることは、こうなった後でも考え至った。あの場ですぐに戻らなかった事実が、答えだとも思った。  今、自分の状況はある種とんでもない状況にかわりない。けれど青年にとって、それでもまだ、ましだと思えた。昨日の今より、ずっと。  「そう」と、男は寝言のように答えた。もしかしたら本当に、まだ寝ぼけた頭で青年が言った言葉を理解しきれていないのかもしれない。  青年は困惑した。けれど、次にはもっと、困惑した。 「まず、体を流そうか」  男が笑って、窓の外から青年へと意識を向けた。その目はテーブル超して青年の足に向けられているようで、気が付いた青年が俯くと泥が土に変わったものと草が混じりあったものが、体中にじっとりとこびりついていた。  あのため息も、男が自分をソファやベッドではなく木のベンチに横たえた理由も、わかった気がした。
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