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※  立ち上がり切れない足元を波がさらった。白い泡が衣類に残る。ぶつかり合った泡沫が飛び散って、青年の顔に飛んで、消えた。  雨で僅かに濁る海を背に、青年は座り込んでいた。波が体を濡らすよりも先に、既に青年の体は濡れている。背に張り付く白いシャツは、透けて赤の筋を浮かび上がらせていた。何本も、青年の背を横に割いた赤は、けれど滲むものはなかった。  呆然と、視線を宙に投げた青年はやがて震える唇から小さな嗚咽を漏らし、俯くと同時に涙を落とした。飛び散る泡沫に紛れる涙は姿が知れない、落ちる先もまた、その形を残す術もなく波がさらった。  青年は自分自身を慰めるように体を揺らした。前後に揺れ、やがて力なく、額を砂に埋めて蹲る。  嗚咽は波の音に消えていく。まるで、青年がこの場にいる事実を全て、消し去っていくようだった。  ここは、青年が思っていた世界とは随分と違った。もっと白々しいか、ずっと暗く、赤く、熱く、今すぐに終わってくれと願ったことさえ忘れてしまうような永遠でもなかった。願ったことはなにひとつ、望んだようにはならなかった。決死の覚悟も、その決断も、全て無駄に終わった。  何一つ残らない、だが、全てが残った。  体は酷く疲れていた。けれど正気を失えるような痛みもない。踏み込む足の関節が頼りなく、まっすぐ体を支えていられなかった。青年の体は立ち上がる側から崩れ、砂に蹲る。何度も繰り返し、立ち上がる。たった一歩を引き上げるだけでも靴底は砂を連れて、青年の進んだ後には陸で生きられぬ動物が蠢いた跡か、不安定な線が残った。  膝が笑い、躓く。地面に体が落ちて、起き上がらせる両手が砂に取られて顔が埋もれた。その度、青年は自身の体がなにも失ってはいないことを認識させられた。腕もある、足も、指も、靴の一つも失っていない。なにもかも綺麗に、どれ一つこの体に残ったままだった。そのどれ一つ、この体に残ることなど望んではいなかった。  引きずる体は自然と手元に触れたものを掴んで地面に落ちる体を支えようとした。青年の体は両手が掴むものに導かれて進んだ。意図もせず、望んだわけでもなく。  何度も膝から落ちて、何度も地面に伏せた。何度目かもわからぬ程続けて、青年が崩れた地面が砂から土に変わった。視界は緑に覆われ、潮のにおいも湿気を含んだ土のにおいへと変わった。  青年は、やがて崩れた体を立ち上げることも適わなくなった。重く、酷く疲れた体を持ち上げる力も、それに合わせて体を支える力も間に合わなくなった。  か細い雨粒が、既に全身濡れた青年の体を滑っていった。  擡げた体を引きずって漸く、土の上に座り込んで、青年は湿った冷たい土の感触が不快だと感じた。  立ち上がる気力は残っていなかった。やっと一つだけ、この体から失われた。  青年が辿り着いたのは昏い森の中だった。木々の間に霧を縫わせて、白い靄の中に草木が生えているような空間だった。  葉が触れ合う音がする。枝の中で雨が止むのを待つ鳥が鳴く声が聞こえる。  咽ぶと土のにおいがした。湿った布越しの体温が、やけに熱かった。  なにもかもこのままだ。  一つ残らず、このままだ。  霧が流れる。木が葉を鳴らす。枝が折れる音がする。  弱い風が吹いて靄が流れた。少し散って、また濃い色に変わった。  風が吹いた、人工的なにおいがした。  青年の前に男が現れた。霧を割って、木の傍で立ち止まり、黒いフードの中から草と泥まみれの青年を見ていた。  ウインドブレーカーのかさつく音がする。白い靄の中、真っ黒な影で近づく。  人工的なにおいがした。黒い水のにおいがした。  男が青年に、手を差し出した。
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