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 やがて、酔いが回り雲の上にいるような状態になった。マスターといい、雰囲気といい、この店はとても心地良いのにお客が来ないのはなぜだろう。出入り口を見つめていると、扉が開く。入ってきたのは裾の長い白いコートを羽織った人だった。その人が席に着くと、マスターは察したように酒を作り始める。 「珍しいですね。自分以外にお客さんがいるのは」 「そ、そうなんですか」 「えぇ、ここは暗く目立たない場所にありますから、簡単には目につかないんですよ。明るい居酒屋の通りが嫌になるほどの『悩み』がない限りはね」  まるで俺の心を覗いたような言葉に指先が震えた。中性的な見た目だが、目が妙に大きく獲物を狙うフクロウのような瞳で俺を見つめてくる。見透かそうとする視線にだんだん苛ついてきた俺は、ジントニックを飲み干す。 「マスター、もう一杯」 「その辺にした方がよいのでは? もう3杯目ですし」  なんで分かったんだ。それすらも察したように隣の客はカウンター裏にある絞ったライムを指差す。 「酒で忘れたいほどの『悩み』があるようですね」 「悩みなんてもんじゃねぇよ。ただ、いつも後悔しているのに周りの人間に言い過ぎたり物に当たってかえって酷い目に遭うことがあるってだけだ」  俺が白状すると案の定、席を詰められた。 「いや、それは立派な悩みです。とてもお辛かったでしょう。そんな貴方にはこちらです」  そう言ってテーブルの上に出したのは、大きめのスマートフォンくらいの箱だった。側面には鍵穴、正面にはデジタルで「0」と表記されている。 「こちらはある特定の行動を我慢すると、その我慢がお金に変わる貯金箱。今回の場合ですと 『怒らなければお金が貯まる貯金箱』ですね」  お金が入ると考えれば怒りを堪えられるかもしれない。だが、笑顔で箱を差し出す姿に触れようとした手を引いた。 「そんな都合の良い物あるわけないだろ。変なばあさんみたいに売りつけるつもりか? それとも、あとでどーんとか」 「誰かと勘違いしていませんか? 私は人間の行動や感情を研究している調査員の一人でございます。あ、申し遅れましたが、私はフクダと申します」  名刺を渡されたが、酔っ払ってて名前以外認識できない。 「人間の行動や感情を? 例えば?」 「そうですね・・・・・・『お金と愛、どちらを選びますか?』とかですね。こう聞くと、お金を選ぶ方が多いですね」 「やっぱり金か、確かに必要だが、そう答える人間は信じられないね」  悪態をつきながら、僅かに残った氷水を飲み干した。 「しかし、定義が曖昧な愛より分かりやすいお金を選ぶのは必然ではないか、と私たちは考察しました。そこで、私たちはある装置を用意しました」 「ある装置?」 「簡単言うと、対象者がお金を選んだら、恋人や大切にしているものが奈落に落ちる装置ですね。そして、『いくらお金を渡せば、大事なものを失ってもいいか』と札束を箱に次々と入れていくんです」  その瞬間、背筋が凍り身体が震えた。フクダの微笑みも意味が違って見える。 「・・・・・・で、結果は?」 「そうですね、いくら払っても無理、あるいは、絶対に払えない金額を提示する方が多かったですね。このように人間というのはとても複雑なので研究が必要なんですね」  多かった、ということは……。引っかかる部分もあるが、気にしたら負けだ。俺は口の中に入った氷を噛み砕く。 「まぁ、今回の調査結果が御代みたいなものですので。貯金箱に貯まったお金はもちろん差し上げますよ。アンケートに答える感覚でどうぞ」  フクダの大きな目がきゅっと細くなり、満面の笑みを称える。気味は悪いが、お金はかからない、むしろもらえる可能性があるなら、やってみる価値はある。俺は再びその貯金箱に手を伸ばした。
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