春 

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海月はにっこりと笑うと、雪国の手を取り、風のように階段を駆け下りていった。 一人取り残された虎太郎は、あっという間の出来事に呆然と立ち尽くしていた。 「海月・・・雪国・・・」 「海月!!なあ、海月!待てって!おい!!」 地上まで駆け下りると、雪国は海月の肩をぐいっとつかむ。 「お前っっ・・・どこ行ってたんだ!!みんな心配してたんだぞ!!俺も、中野も、滝口も・・・お前の父親も・・・! 急にいなくなりやがって、ワケわかんなくて、ずっと生きた心地がしなかった・・・!どういつもりなんだよ・・・!?」 息を切らしながら捲し立てる雪国を、海月はきょとん、とした顔で見つめていた。確かに海月で間違いはないが、髪の毛は長く伸び、だいぶ印象が変わった気がした。 「・・・っとに、ふざけんなよ・・・この1ヶ月、どんだけお前のこと探し回って、しんどい思いしたことか・・・」 そんな海月の顔を見ていると、責める気もだんだん失せてきた。 安心からか、色んな出来事が一気に押し寄せてきた疲れからか、急に身体の力が抜けた雪国はその場にしゃがみこむ。 「大丈夫・・・?」 海月の黄色ががかった大きな瞳が、心配そうにのぞき込む。 「大丈夫じゃねーよ、このバカ!」 「ひん」 「虎太郎の奴は急に出てくるし、お前はあの時屋上から飛び降りたきり、それで・・・」 そうだ、あの時のことは鮮明に覚えている。 2月の終わり、上沢海月は確かに自分の目の前から忽然と姿を消した。 海月は父親と二人暮らしだった。「探さないで下さい」という直筆の置き手紙が家にあり、家出人扱いで警察には届けられた。 田舎なので有力な目撃情報もなく、警察も特段本腰の捜査もしないので、雪国は躍起になってあちこち探し回った。 海月の父親に、海月は自分の目の前で飛び降りた、という話をしようともしたが、どうにも信じてもらえる気がしなかった。 しかし、あの時確かに、海月は「最期の別れ」を告げるために、自分を呼び出した・・・ 混乱する雪国の手をとると、海月はすっと引き上げる。 「はい、深呼吸~!大きく息を吸って、はいて~~」 雪国は思わず、海月に言われた通りにゆっくり深呼吸する。吐く息が震える。 「ねえ雪国、ちょっとお散歩しようか」 雪国は海月と並んで、海の側の遊歩道をゆっくりと歩く。 海月にあれこれ聞きたいことがあるはずなのに、何から聞けばいいのかわからず切り出せない。 そんな雪国はお構いなしに、海月は鼻歌など歌っている。思いつきで歌っているのか、繰り返し何かを歌っている。 よく耳を澄ましていると、聞き覚えのあるメロディだった。 「・・・Alice in wonderland」 海月が好きだったジャズナンバーだ。 海月は元々ジャズに興味があるわけではなかった。 たまに雪国のバイト先にふらっと現れては、おすすめを流してくれと言う。その中でも特にこの曲を気に入り、よく聴かせてほしいとせがまれたものだった。 「どこか遠くの、異国へ行ったような気持ちになるから」 なぜこの曲が好きなのかと尋ねると、彼女はそう答えた。 海月は元々幼い頃から大人しく、友達も少ない方だった。 何を考えているかわからず、よく遠くの方を見てぼーっとしているような女の子。口数も表情も乏しいので、周囲へ誤解を与えることもしばしばあった。 幼馴染みの雪国でさえ、彼女が何を考えているのかわからないこともあったが、雪国の最大の理解者であり、心を通わせた大切な存在であるのは間違いなかった。 辛い時、悲しい時、いつも海月は雪国に寄り添い、その感情を分かち合った。 Alice in wonderlandを聴いていた時も、海月はぼうっと遠くの方を見ていた。 あの時、一体何を考えていたんだろう。 何を見て、何を感じ、何を決断したのだろう。 何度悔やんでも悔やんでも、悔やみきれないくらい、この一ヶ月後悔の念に苛まれてきた。 何もできなかった、彼女の力になれなかった自分を責め続け、呪った。 もう一度なんとか会いたい。 そう願い続けた彼女が目の前にいるのは、未だ信じられない気持ちだ。
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