春 

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「お帰り雪国ー。飯できてるぞ」 リビングからの昭宏の声を無視して、2階へと上がる。自分の部屋に入ると、鞄を床に放り投げた。 真っ暗な部屋に月の光がやけに明るく差し込んでいる。それが気に障って、乱暴にカーテンを閉めた。 どさっとベッドに倒れこみ、目を閉じる。 ーーーーーー全部忘れてしまいたい。最初から全部なかったことにしたい。 辛い事だけ忘れられる装置があれば、今すぐにでも使いたい。 でも実際にそれがあったとしても、そんなことできっこない。できるはずがない。 待ち合わせした駅のベンチ、自転車で一緒に駆け下りた坂道、海へと続く小さな路地裏、時間を忘れて語りつくした海辺、飽きもせず食べていたたまごサンド、いつものコンビニ、アストラルパークの秘密の場所、好きだと言ってくれたジャズナンバー。 どこに行っても何をしても、虎太郎との思い出が蘇ってしまう。 そんな思い出もういらない。生きていく上で必要がない。 そんなもの抱えていても苦しいだけなのに、思い出すのは、憎らしいはずの虎太郎のキラキラとした笑顔。 貸してた漫画の続き、読んでるだろうか。よく一緒に食べたコンビニアイスの新しい味、食べただろうか。大好きな野球、がんばっているだろうか。 この一年、必死に思い出さないようにしていた。早く時間が過ぎ去って、過去のこととして、なんでもないように振る舞いたかった。 これまで抑えつけていた思いが、大波のように一気に押し寄せてくる。 しかし、今更どうすることもできない。 あの時からなにもかも変わってしまった。引き返すこともあの頃に戻ることも、できないのだ。 ちょうどいいのかもしれない。自分というどうしようもない存在を誰からも忘れ去られ、最初からいなかったことにされ、生きた証さえ残さないで死ねるのだから。 そうすればこの苦しみも、虎太郎の中のあの頃の自分も、綺麗に消えていくのだろうか。 愛情というものは呪いに似ている。一度解かれたと思っていても、ふとした瞬間に蘇り、人を縛り続け、苦しめる。 消えることはない、逃れることもできないーーーーーー 雪国は顔を枕にうずめ、とめどなくあふれる涙に、ただただ一人耐えていた。
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