プロローグ~夢の痕

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家の近くの野っぱらにある、大きな木。 春になると大輪の桜の花を咲かせる。 今は物寂しい枝だけの姿だが、やがてあと1ヶ月もすれば蕾を膨らませ、今年もその晴れやかな装いを見せてくれるのだろう。 木の下で寝そべりながら、その姿を想像する。 この桜も、あと何回見ることができるのだろうか。 その時、誰かが上にいたような気がしてがばっと起き上がる。立って仰ぎ見たが、特に異変はない。 気のせい、だったか。 このあたりは海が近く、冬場でも厳しい冷え込みにはならない。しかし、その時頬をなぜていった2月の風は、妙に薄ら寒く感じた。 気がつくと、10時を過ぎていた。 ほんの少しだけ後ろ髪引かれる思いがしたが、振り切るように自転車に跨り、街を駆け抜ける。 冬場特有のぴりっとした冷たい風を切り裂いていく。 この街は曲がりくねった細い路地が枝分かれのように幾つも伸び、山から見下ろすようになだらかな扇状の形をしている。大通り以外は人通りも少なく、慣れたコースで路地の間を自転車で縫っていく。 10分ほどで最寄り駅に到着した。 すぐ側の無料駐輪場に止めると、ちょうど電車がホームに入ってきた。定期券を通し、開いたドアに軽々と飛び乗る。 平日の通勤時刻を過ぎた時間帯は、誰もいない貸切電車だ。 15分ほど揺られながら、外の景色をぼーっと眺める。 目的地の駅で降車する。隣町もこの時間帯は人が少なく、駅前通りをてくてくと歩く。 そのうちに、雲間から日が差してきた。 ほどなくして、時代を感じさせるレトロな喫茶店にたどり着く。「CLOSE」の札にもお構いなく、重厚なドアを押し開ける。 中には誰もおらず、暗い店内はひっそりと静まり返っている。 窓から差し込むわずかな陽光が、室内を薄ぼんやりと映し出す。 年季は入っているがよく手入れされた木製のテーブル、凝ったデザインの格調高い椅子、微かに残るコーヒーの香り。朝の静謐な空気感。 そして、棚から一つのレコード盤を手に取り、慣れた手つきでセットする。 『Skating In Central Park』 近くの椅子に適当に座り、テーブルに突っ伏す。 目を閉じ、流れてくるピアノの音に耳を澄ます。 ああ。このピアノの音は。 心の琴線を、ふわっ、と撫ぜるような繊細なタッチ。 時を越え流れ出てくる空気に、思わず酔いしれる。 レコード特有の、くぐもったような音がたまらない。 この曲を聴くと、心の逆立った波が不思議と穏やかになる。 何もかも雑音を忘れ、たった一人、ぽつんと立っている、そんなイメージ。 自分はこの世界でひとりぼっちなのだと、嫌でもわからせてくれる。 しかし寂しいわけではない。 これまでもそうだったし、これからもそうなのだ。 ここが自分の居場所。自分の現在地。 それを確認するために来た、のだと思う。 うとうとしていると、丸めた新聞のようなもので頭をぽこっと叩かれる。 「この不良め。勝手に入るなと言っとるだろうが」 顔を上げると、しかめっ面のベレー帽の老人が腕組みをしていた。 「・・・開店前でどうせヒマなんだから、別にいーだろ」 「仕込みで忙しい真っ只中だ。お前も手伝わせるぞ」 「手伝うほど忙しくねーくせに」 またぽこっと叩かれる。 老人はキッチンに戻り、何かを作り始めた。 少ししてまた来たかと思うと、半熟スクランブルエッグのせ厚切りトーストが乗った皿と、熱々のコーヒーを、乱雑に目の前に置く。 「いい加減、給料から引くからな」 そして再び厨房へと戻る。 「・・・だから、いらねーっつってんだろ」 腹は減っていなかったが、しぶしぶコーヒーに口をつけてみる。 ほろ苦さが口の中にじんわりと広がり、目が少し覚めた。 ふうっと天井を見上げ、灯のないシーリングファンライトを見つめる。 ああ、俺は、一人だ。 今夜、幼馴染でありもう一人の親友、上沢海月(かみさわみつき)に呼び出されていたことを思い出す。 バイト終わりの時間に合わせて21時に『いつもの場所』で、と言われていた。 「(わざわざ呼び出すなんて久しぶりだな。なんかあったのか、アイツ)」
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