星の海、星の森

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8.  200年後のスリープ解除が、知性体である彼自身の意図したものだったのかは定かではない。  なぜ今、ここで覚醒なのか。なぜ200年?  スリープ解除直後の彼の思考は――     最初のその問いに対する結論を得られぬまま、彼はその場で立ち上がる。  世界に光が降っている。森に光が満ちている。  時刻は午後。そこは深き、光に満ちた森の中だった。    いつか彼がここで見た、あの神々の森とは、姿は大きく様変わりしていたものの――   「む。予想した通り、だな。200年。あるいは160年程度でも、植生再生上の問題なかったというわけか――」    各部の関節ジョイントの動きをひとつひとつ確かめるように。光の森を彼の足が踏んでゆく。鳥たちの歌声が頭のうえから降ってくる。森は光に満ちている。森に光が降っている。    彼はそして、その場所で足を止めていた。  止める意図はなかったのだが。視覚反射で、そこで動作を止めた。    光の柱がおりてくる、森の広場のその中央――  地面の上で苔に覆われ、いびつに盛り上がったその構造物。  あるいは遺骸。それはかつての――    「原始楽器、か。驚いたな。200年後にも、まだ痕跡が確認できるとは。」    破壊された、かつて「ピアノ」と呼ばれたその白木でできた太古の民が奏でた楽器の一部―― それは今では残骸であり―― 今ではそれは、もう、歌を奏でることはできない。    無数の鳥たちの羽音が、頭上の光の中ではためいて。  知性体の彼のそのマインドは――  その鳥たちの羽音にのせて。  かつてそこで、彼女がつむいだその音の広がりを。  その純粋な、遠い場所まで届いてやまない、あの、青い瞳の彼女の歌を。  彼はいま、記憶のアーカイブの中から。彼はそれを。かろうじて残るその音を、マインドの中で再生し。再生し。再生――    遠い海鳴りを、彼は今、聞いた気がした。  そこでは鯨と呼ばれた今は亡き海獣たちが、恋の歌を、まだそこで歌い続けている。    彼の思索はそこで中断する。  彼は視線を25度の角度で上方に移動。記憶のアーカイブに向けられていた彼の意識のすべてが、瞬時に外部環境の把握に向けて鋭く集中する。  彼の感覚センサーが、捉えたのだ。  それが捉えたのはもちろん海鳴りでもなく、今は亡き海獣の歌声でもない。  現実に存在するノイズだ。  距離は遠い。位置で言えば、約200年前に彼が焼きつくした第四大陸の、弓形に湾曲する半島部の東側の部分。  そこから発せられるのは、木々や風や鳥たちの声以外の、実態不明な雑多なノイズの集合。その複雑なノイズのパターンに最も近いものが何かは、彼はもう知っている。 「原始住民の、生活音、だと…?」  彼は絶句した。彼は確かに知っている。テラ上の各大陸の現地住民の残存数は当時確実にゼロだった。大陸すべてを覆ったあの超高温の炎の中で生存できる個体など存在するはずもなかったのだ。しかし、それなのに、なぜ。  高速でマインドを走らせながら、同時に彼は地面を蹴る。午後の森に風が立ち、森の樹冠がざわめいた。そのざわめきが静まった時には、光降る森には攻撃知性体の姿はもはやない。その時点ですでに、彼は黄金の髪をなびかせ、はるかに森から隔たった丘の連なりの上空を滑空していた。
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