第二話 贈り物を求めて

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第二話 贈り物を求めて

 冷たい空気に目を覚ました時、空はもう白み始め、明けの星が消えてゆこうとしているところだった。  船底から身を起こし、プタハシュペルはたてつづけに幾つかクシャミをした。  「ううっ…寒…」 ぶるぶると震えながら、体にかけていた布をかきよせる。屋根もなく、壁もない。どうしてこうなったのかというと、昨夜、日が暮れる前に宿の取れそうな村が見つからず、日没を迎えてしまったからなのだ。今の季節は川の水位も低く、浅瀬の多いメンネフェルより下流の地域では座礁の恐れがあるとヘカネケトが判断して、手ごろな中洲に船をとめたのだった。  今、船は、背の高い葦に埋もれるようにして斜めに停泊している。  空気は凍えそうに寒いが、葦が風よけになってくれたおかげで、朝の星見の仕事よりはまだマシだ。ヘカネケトの姿は、既に船の中に無い。背伸びして辺りを見渡すと、中洲の奥の方に、浅黒い背中が見えた。  「ヘカネケト?」 声をかけると、青年が顔を上げた。「何してるんだい」  「……。」 相変わらず無口なまま、彼は、手にした葦の簡素なかごを、水から持ち上げてみせた。中には魚が入っている。  「それ、今日作ったのか?」  「はい。」  「凄いな! 手先が器用なんだな。へえ…魚とりの罠かあ。」  「朝食にします。少しお待ちを」 そこまでしてくれることはないのに、と思いながら、プタハシュペルは布にくるまったまま大人しく待っていた。目の前で、船のへりをまな板がわりに、ヘカネケトは器用に魚をひらいていく。農家の出身だから河に入るのも泥に汚れるのも慣れているが、どうにも手先は不器用で、そんな風に上手くは出来そうにない。下手に手伝ったら、せっかくの獲物を台無しにしてしまいそうだった。  「そういえばヘカネケトってさ、神殿で働いてる人? 見たことが無いけど…。どこか、近くの村の人?」  「仕事は夜警なので、神官さま方と会うことは無いのです。生まれは神殿所領の村の一つです。」 そう言って、彼は近くの村の名を告げた。  「へえー、俺の村の反対側だね。俺も村の出身なんだ。」  「うちは、…父と兄は、神殿でお勤めをしています。」 火を起こしながら、ヘカネケトの声は小さくなった。「ぼくは書記になれなかったので」  「…そう」 書記の一家に生まれても、書記になれない、というのは、珍しいことでは無かった。結局のところ、文字を覚えられるか、一日中座って仕事をすることに耐えられるか。勉学に向いていないとか、文字を覚えられないとかすれば、学校を卒業できず、書記にはなれない。いい年になってもまだぐずくずと学校に居残る者もいないでは無かったが、大抵の者は、ヘカネケトくらいの年になってもまだ卒業できなければ、自ら見切りをつけて、学校を去る。  「どうして、俺と一緒に神殿を出されたんだい」  「大神殿の神官さまたちが、あの朝、星の流れるのを見た者を探しに来て…ちょうど仕事を終える時に見たという話をしたからでしょう」  「それじゃああんたは、俺と同じものを見たんだよな」 プタハシュペルは、ヘカネケトの沈んだ横顔をなんとか明るくしようと、話題を変えることにした。  「どんなだった? どこから見てたんだ」  「神殿の東の、船着き場のあたりから見ていました。ちょうど頭上を通り過ぎる時で、…空の一部が…白っぽく光っていた気がして。同じ時間に見回りをしていた仲間で、それを見たのは、ぼくだけです」 淡々とした、抑揚のない口調。  「そっか…大変だったね。こんなことに巻き込んじゃって、ごめん」  「いえ。」 それだけ言って、焚火の方に意識を戻す。黙々と手を動かし続けるヘカネケトの仕事ぶりには非の打ちどころもなく、手伝おうか、とも言いだしづらかった。  日が昇り、最初の光が中州に届く。  纏っていた布を畳んで船底にしまい込むと、プタハシュペルは、せめてここがどの辺りなのかを確かめようと、葦の向こうに見えている川の対岸に視線を凝らした。  メンネフェルを発ってからは、ずっと川の流れに沿って、北へ、川下へと向かってやって来た。途中に村や町は幾つもあったけれど、どれも、そう目立つものではなかった。河の支流は海へ向けて、大きく五つの流れに分岐する。そして、それらは東西にも、相互に繋がっている。彼らが入ってきたのは二番目の、一番太い支流のはずだった。  ここからどこへ向かうのかは、実はプタハシュペルも判らなかった。  星が流れた方角は確かに北だったが、真正面の北だったのか、西か東へ少しずれた北だったのかは、はっきり覚えていないからだ。ここから先は、同じように星の流れるところを目撃した人を探して、少しずつ場所を特定していくしかない。気の遠くなりそうな仕事だ。とても二人きりでは、とプタハシュペルは、今さらのように泣きたい気持ちになっていた。神様の導きを無邪気に信じられるほど子供では無いし、それほど能天気でもない。  「焼けましたよ」 葦で包んで蒸し焼きにした魚を、ヘカネケトが船のへりに置いてくれる。  「ありがと。あ、あんたの分は? 船を動かしてくれてるんだし、俺より疲れるはずだから、たくさん食べておいてよ」  「……。」 小さく頭を下げて、彼は無言に、足元の火をかき回した。  何故だか、妙に距離を感じる。同じ年ごろだし、使用人という身分でもないはずなのに、自分から努めてへりくだろうとしているような雰囲気を感じる。  簡素な食事を終えて、二人は、再び川下りの旅を開始した。力を合わせて船を流れに押し出して、櫂はヘカネケトがとり、プタハシュペルは舳先に座ってどこか立ち寄れる集落はないかと目を凝らす。  やがて行く手に、中洲の端に立つ漁村らしきものが見えて来た。村のはしには、石づくりの小さな神殿まである。  「あそこにしよう。神殿があるなら、もしかしたら神官さまとかいるかもしれないよ」  「承知しました」 ヘカネケトが櫂を操って、船を岸に寄せる。数十件の家が集まった、村と言ってもそれなりの規模のある集落だ。村の周囲には中洲の縁にそって畑が作られ、そろそろ刈り入れ時になろうかという金色の麦の穂が頭を垂れている。神官の衣を見につけた来客がやって来るのに気づいて、村人たちは動きをとめた。普段のプタハシュペルが身に着けているのは見習い用のただの亜麻布なのだが、旅立ちに際して神官長からは、正式なプタハ神官の上着と、使者が身に着けるたすきとを預かって来ていた。  「おうい、神官さん。どちらへ行かれるんですか」  「それを教えてもらいに寄ったんだ。最近、夜明けの空に大きな星の流れるのを見た人はいないか? 南の空から来たはずなんだけど。」 村人たちは顔を見合わせる。  年かさの一人の村人が、おずおずと口を開いた。  「星が流れる…ってえのは、また、何か良からぬことが起きるんですか」  「また?」  「ほら、何年か前まで、立て続けに王様たちが亡くなった時があったでしょう。そりゃあ――あんまりいい王様たちじゃ無かったとは思うが――色々起きて」 船を川岸に固定して、プタハシュペルの後ろから追いかけてきたヘカネケトは、無言のまま彼の後ろに立っている。  「うーんと、それはよく判らないけど、今回のは吉兆だ。大神官さまがそう言った。プタハ神からの贈り物だって」  「それなら、いいんですが」 村人たちはほっとした顔になって、互いに、取り留めもなくああだこうだと話しはじめた。星なんて見ていない、最近は寒いから朝は遅い、プタハ神といえばメンネフェルの都には親戚がいる、等等。  肝心の、欲しい情報は一向に出てこない。見たのか、見ていないのか。  しびれを切らして、プタハシュペルは村人たちに言った。  「神殿に行っているよ。もし何か思い出したら、あとで教えてくれ」 最初から、村長とか神官とか、誰か代表者に聞けば良かったのだ。そう気づいたのは、歩き出したあとだった。  「…はあ。次からはもっと、上手くやろう」  「……。」 ヘカネケトは否定も肯定もせず、後ろを黙ってついてくる。  小神殿にたどり着いてみると、そこは、今はもう使われていないのか、ずいぶん荒れ果てていた。遠目に見ていた時は分からなかったが、入り口の左右に刻まれたアメン神の像が壊されている。入り口の扉は取り外されたままで、神殿の中には必ずあるはずの神像もない。ただ、横にくっついた小さな豊穣の神オシリスの祠堂のほうは無事で、神殿の中の空っぽの台座の上にはお供えものがされていた。  「何だか妙な感じだなあ…」 がらんとした神殿の中を見回しながら、プタハシュペルは呟いた。祀られるべき神の神名や、像だけが壊されている。神殿の中では最も大切にされるはずの場所だ。  「…壊されたのでしょう」 ぽつり、とヘカネケトが言った。  「壊された?」  「何代か前の…新しい都に移り住んだという、王様のご命令です。」 眉を寄せて考え込んでいたプタハシュペルは、ようやく思い出した。  それは、十年以上も前の話だ。  この国の主神だったアメン神を嫌った王様が、突然、国じゅうのアメン神殿を閉鎖させ、像や神名を、片っ端から打ちこわし、削らせて回ったことがあった、という。  プタハシュペルはまだ幼くて、その頃のことはよく覚えていない。ただ、プタハ神の大神殿も一時は閉鎖され、豊穣の神の祭りも控えるようにと言われて、大人たちが怒って役人にひどく抗議していたのは覚えている。結局それから何年もしないうちに、前の勅令は全てなかったことにされた。王とその一家に大きな不幸が降りかかり、王も、その家族の大半も、短期間のうちに死に絶えてしまったのだとか。  当然の報いだと、皆が言っていた。  その王様はアメン神の代わりに別の、太陽から手の生えたような姿をした神を崇めるようになり、それ以外の古来よりの神々は全て否定した。だから病にかかっても、疫病の神に祈ることも、冥界の神に慈悲を請うことも出来なかったのだと。  「アクエンアテン王か…。こんな小さな村の神殿にまで手を出すことなかったのに」  「まったく、その通りですよ」 思わずびくっとなって振り返ると、そこに、背を曲げた小柄な老人が一人、杖をついて立っていた。首から下げた護符と、綺麗に剃られた髭、それに身にまとう白い袈裟が、辛うじてこの老人が神官であることを示唆している。  「えーっと…あなたは、ここの神官さん?」  「正確には、だった者、…でしょうか。はい。今もまだ、ここの預かりをしております。ご覧のとおり神殿は汚されてしまい、神名も、お姿も、残さず痛めつけられてしまいました。ここは今は空っぽのままです。新しい王様が、早く修復してくださればよいのですが」 小さくため息を一つ。  「――その印は、プタハ神の神官さま、ですな。メンネフェルの大神殿では、流石にこのような酷い仕打ちは無かったのでしょう」  「はい、ええっと…多分…。閉鎖されたことはあったけど」 話が逸れてしまわないうちにと、プタハシュヘルは、急いで本題に入った。  「あのう、俺、大神官さまの言いつけで、空から落ちた星を探しに来たんです。何日か前の夜明け前、空を流れる星を見た者はいませんでしたか」  「『天より来る石』、プタハ神の贈り物ですな」  「…ええ」  「それならば、もっと西の方でしょう。見たという者はおりましたが、右手の、西の方へ消えて行ったと言います」  「もっと、西…」 それならば、もう一本隣の、最も西側の大きな支流のほうなのか。  「ありがとうございます」 神官にぺこりと頭を下げ、プタハシュペルは小神殿を出て行こうとした。  「ネブケペルウラー様は、」 立ち去りかけたとき、老神官の震えるような声が、彼を呼び止めた。  「…今の王様は、即位前のしばしの間、メンネフェルに滞在されたことがあったと伺っております。あの方は、古き神々の秩序を重んじられる方でしょうか? また、恐ろしい異端の神に囚われたりはしますまいな。」  「はあ、会ったこと無いですけど、多分…?」  「であれば…よいのですが…。」 深い深い溜息。  もう一度、軽く礼をして、プタハシュペルは急いでその場を立ち去った。政治の話や世間話は、今の彼には難しすぎて何とも言えない。ましてや、今の王様の話など。  以前の王様の悪口なら散々聞いたことがあるけれど、今の、年若い王様についての話は、ほとんど聞こえてこなかった。プタハシュペルとほとんど変わらないくらい若い王で、亡き王が各地の神殿に出した命令の取り消しや、打ち壊した神殿の修復、その他の様々な「やり直し」に忙殺されているらしいことくらいしか知らない。秩序を取り戻すのだと、先輩神官のヘルケプシェフは言っていた。それは、現世のことわりを修復するに近い行為なのだと。  急いで船に戻ってから、小神殿のほうを振り返ったプタハシュペルは、老神官が追ってくる気配がないのを確かめて、ほっとした顔になっていた。お年よりの話は、悪気が無くてもとりとめもなく長いのだ。付き合っていたら、次の村まで行く時間が無くなってしまう。  「よし、それじゃ出発しようか。もう少し西だって言っていた。この先の支流から、西の流れへ入ろう」  「はい」 ヘカネケトは、淡泊な表情のまま小船を流れへと押しやった。  船を出してから、ヘカネケトがぽつりと言った。  「今の王様は、冥界神様には特別の便宜をはかっているんだそうですよ。」  「そうなの?」  「神殿で働く父から少し聞いたことがあります。冥界神様の神殿には、奥方の、セクメト様の御座所も併設されているでしょう? 疫病の女主人。女神たちの中で最も力あるものの一柱。前の王様たちのご一家は、疫病で倒れていったんだそうで…それで、かの女神の怒りを鎮めるためにと、今の王様も、即位前にしばらくメンネフェルに滞在されていたそうです」  「知らなかった。その頃って俺はまだ、大神殿に上がっていなかったんだ。よく知ってるなあ、ヘカネケトは」  「…ぼくは、家族が大神殿にいましたから。」 それだけ言って、彼は、口をつぐんだ。  そういえば、ヘカネケトが自分から話し出すのは珍しいな、とプタハシュペルは思った。一緒に行動するようになって何日も経つが、無口で、必要以上のことはほとんど喋らない。  「ねえ、それじゃ王様のことも知ってるの? 見たことある?」  「それは…無いです。」  「そっか。まあ、会うことなんてないよね。今はずっと上流のウアセトにいるんだし」 そこは、かつてのアクエンアテン王が一度は棄てたアメン神の都、王国の首都だった。王の代が代わり、今の王は、周囲に勧めによって再びそこに王宮を構え、アメン神を国家の主神として取り戻すことを宣言した。全ての秩序を、異端の王の即位前に戻すのだと。  「…もし」 しばしの沈黙の後、ヘカネケトは続けた。  「今回の、この流れ星が…もし、本当にプタハの大神からの贈り物だとしたら、…神々の怒りは、解けたことになるのでしょうか」  「へっ?」 ちょうど船が流れに乗って勢いよく滑り出すところで、大きな水しぶきが上がっていた。プタハシュペルは思わず聞き返した。  「怒りが解ける? 何で?」  「星が流れたのは吉兆だと、大神官さまはそう、判断されたのでしょう?」 辛抱強く、ヘカネケト繰り返した。  「天の神々が地上に贈り物を寄越したのなら、それは、…それは地上の王に対する肯定の品、ということになるのでは?」 それは、考えてもみなかった。プタハシュペルは思わず目をしばたかせた。  「ええっと…。そう、か…。」 出発する前、シプタハは言っていたではないか。  「これは王権にも関わる話なのだ」 と。  「『天の石』が手に入れば、今後の、王家の権威づけにもなろう。」 …その言葉の意味を、プタハシュペルは今になって、ようやく理解した。  (『天の石』を見つけて、王様に献上するつもりなのか…) それを、神々の怒りが解けた印とするために。だから言ったのだ。「見つかるまでは戻るな」と。  これは、何としても天から落ちた石を見つけ出さなければならない、プタハシュペルが思っていたよりもずっと重い任務なのだ。  そう理解した途端、彼はぞっとした。もしも失敗したら、神官を首になるどころではない。大神殿に戻れないどころか、村にだって戻れはしないだろう。神の怒りを買って任務に失敗した男として、一生、後ろ指を指されることになる。それどころか、呪われた者として扱われるかもしれない。  (ど、どうしよう…) ごくりと息を飲み込んで、彼は、どきどきしている胸の辺りに手をやった。その手の先に、首から下げた冥界神のお守り、「安定」を意味する柱の形をした細長い石が触れる。  今まで、一度だって真剣に神のご加護を祈ったことなどない。  けれど今こそは、初めて、心の底から助けてほしいと願った。決してそっぽを向かぬよう。間違った水路へと導かぬよう。  船は西へ、水路を辿って隣の支流へと向きを変えていく。  「次は、どのあたりで止まりますか」 船尾のほうから、ヘカネケトが訊ねる。  「次の太い支流に入ったところで、もう一度、どこか上陸して目撃者を探そう。石が川に落ちてなきゃいいけど…。もし水の中だったら、もぐって探すのが大変すぎるよ。鰐だっているし」 葦の茂みの中から、白い、首の長い鷺が飛び立ち、浅瀬に魚が飛び跳ねる。川の下流では人の住む場所はまばらで、縦横無尽に張り巡らされた水路のうちのいくつかは、川の水位の低下とともに干上がっている。逆に増水の季節になれば、これらの水路はすべて満たされ、ことによっては、村の側まで水が迫るのだ。  幼い子供の手を引いて川べりの道を歩いていた母親が、こちらに気づいて振り返る。子供が笑顔で手を振った。プタハシュペルは無意識のうちに手を振り返し、去って行く村の風景に視線を巡らせた。  長閑で、穏やかな風景。  けれど天の石の落ちた場所は、きっとここよりさらに先のほうだ。  流れに任せて下ってゆく小船のはるか先に、傾きかけた太陽の光に煌めく太い支流との合流点が見え始めていた。
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