第三話 大いなる緑

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第三話 大いなる緑

 船底の異変に気付いたのは、三つ目の村を周った後のことだった。  先を急ぐあまり、遠回りをせずに浅瀬を突っ切るようヘカネケトに頼んだのがいけなかったらしい。船底から水が染み出して、足や布で塞いでも、どんどん水が溜まっていく。  ついに小船は、進むことが出来なくなった。  「荷物を、先に陸へ」 腰まで水に浸かりながら、ヘカネケトは慌てもせずに淡々とした口調で言う。プタハシュペルは大急ぎで荷物を抱え、泥をはね上げながら陸地へ飛び移った。振り返ると、ヘカケネトは船をひきずるようにして、岸辺に押し上げてくるところだった。  もう、陽は暮れかかっている。辺りには村さえなく、少し先にぽつりと一軒家があるばかりだ。  「うう、ごめんよ…。」  「底の詰め物が外れただけです。なんとか直せると思います。明日になりますが」 ヘカケネトはちらと空に視線をやり、それから、少し先に見えている、あばら屋のような民家のほうを見やった。  「誰か住んでいるみたいだ。泊めてもらえるか聞いてみよう」  「……。」 否定も肯定もせず、彼は、黙って船をひきずる作業に集中していた。  近付いてみると、建っているのは、泥を固めた日干し煉瓦を積み上げて草をかぶせただけの、家と呼んでいいのかどうかも疑わしいものだった。周囲に畑も何もない。入り口には、棒切れや石が転がっているばかりだ。扉を叩こうにもその扉が無く、布切れがかかっているだけだ。けれど、入り口にはうっすらと光が漏れている。  こんなところでは、泊めてくれたとしてもよく眠れないかもしれない。それとも、横になれるような床もなく、地べたに寝そべるだけかもしれない。  しばし迷っていたその時、目の前で、さっと布が横に引かれた。  「何だい、あんた」 顔を出したのは、歯並びの悪い老婆だった。前歯は何本も抜け落ちて、残っている歯も黒ずんでいる。  「あ、あの…。この辺りに、村とかは」  「無いよ。ふん、…その格好、神官かい? 何でまた、こんなところをウロついている」  「船が浸水したんで。その…」  「宿でも探しているのかね。なら、裏の納屋を貸してやってもいい。牛を飼っていたが死んじまって今はいないよ。あんた一人かい」  「いえ、連れがもう一人…」  「二人か。なんとかなるだろう」 プタハシュペルのあとからやって来る青年のほうにじろりと視線をやって、老婆は、ぶっきらぼうに言った。「適当に使いな。言っとくが汚いよ。」  「…ありがとう、ございます」 目の前で乱暴に布が閉ざされた。裏手に回ってみると、確かに小屋らしきものがある。半分壊れかかって、屋根は隙間だらけだ。牛の糞が乾燥したような匂いが鼻につく。  「ここで寝るか、あの水びたしの船で寝るか。はあ、究極の選択だなぁ…。」 持って来た荷物を窓際のでっぱりに引っ掛けて、プタハシュペルは、薄暗い小屋の端に転がっていた桶の上に腰を下ろした。  「壁があるだけマシかな。明るくなったらすぐに出よう。」  「…そうですね」 ヘカネケトは、どこか落ち着かなさげに小屋の反対側の端に腰を下ろす。近くに村は無い、とさっきの老婆は言っていた。そのせいだろうか、しん、と静まり返って音も無い。  「ここは、どの辺りなんだろうな…」 と、プタハシュペル。  「分りません。この辺りまでは、来たことが無いので」  「明日になったら、さっきの人に聞いてみよう」 あのぶっきらぼうな感じからして、教えてくれるかどうかも疑問だったが。  決して快適とは言えない寝床だったが、それでも、眠りはやって来る。  壁にもたれかかったまま、いつしか、うとうととしていたらしい。それがふと目を覚ましたのは、なにやら近くでごそごそと動く気配があったからだった。  (ヘカネケトかな…? 用でも足しに行ってたのか…) 物音が近付いてくる。プタハシュペルの頭上の辺りで、何やら荷物をまさぐっている気配がある。  (まだ暗いのに。何をしているんだろう) 目を閉じたままじっとしていると、物音の主は動きを止め、しばし、様子を伺っているようだった。やがて手が、プタハシュペルの胸元に延びて来た。指先が、彼の首から提げた護符へと伸びていく。  はっとして、プタハシュペルは目を開けた。  すぐ目の前に、大きく目を見開いた歯並びの悪い老婆の顔がある。  「――う、うわあっ!」 思わず悲鳴を上げて、彼は飛び上がるようにして起き上がっていた。同時に、相手も老婆とは思えない俊敏さで後へ飛び退る。  「な、な…」 悲鳴を聞きつけて駆け戻って来たヘカネケトが、外から飛び込んでくる。先に起きて、船の様子を見に行っていたのだ。  老婆はカッと目を見開き、足元に落ちていた棍棒を掴むやいなや、力任せにヘカネケト目掛けて打ちかかった。顔を庇おうと、とっさに腕を上げたけれど間に合わず、棒は彼の額を強打する。ぱっくりと割れたところから、赤いものがしたたり落ちた。  「うわあっ」 思わず、プタハシュペルは足元に転がっていた桶をひっつかみ、それを老婆の背中目掛けて投げつけた。そして、出っ張りに引っ掛けてあった荷物をひっつかみ、入り口をふさいでいた二人にほとんど体当たりするようにして外に転がり出る。  「ご無事ですか」  「俺はね! 逃げよう、早く!」 ヘカネケトの腕をつかみ、あらん限りの速度で走り出す。  「キエエッ」 振り返ると、老婆が奇声を発しながら棒きれを振り回して追いかけてくるところだった。ぐすぐずしている余裕はない。  いつの間にか、空は白みかかっている。  「船は? 直った?」  「まだ、十分では――でも、水を汲みだしながら行けば…」  「じゃあ、それで! ここで魔物に食べられるよりは、河の神に身を捧げたほうがよっぽどマシだ」 荷物を船に放り込み、二人がかりで川の流れに押し出して飛び乗った時、岸辺には、せっかくの獲物を逃がして悔しがる老婆の姿があった。何やら汚い言葉を散々喚いているようだが、幸いなことに、距離があってほとんど聞こえない。  やがて流れの向こうに恐ろしい姿が見えなくなると、ほっとして、プタハシュペルは船底に座り込んだ。  「うわっ、冷たッ」 そして、浸水してきた川の水に尻を濡らして、思わず悲鳴を上げた。  船底の穴は、器用に乾いた草と泥を詰め込んで塞がれていたが、応急処置ではそう長くは持ちそうになかった。両手ですくって水を捨てても、後から後から湧き出してくる。  「急いで近くの村を探そう。…今度は、ちゃんとした村。それで、…」 言いかけて、振り返ったプタハシュペルは思わずぎょっとした顔になった。  「ヘ、ヘカネケト。血まみれじゃないか!」  「…血?」 さっき、老婆に棍棒で殴られた場所だ、眉の上の辺りがざっくりと裂け、固まりかけた血が顔の半分と胸の辺りを大きく染めている。  「真っ赤だよ、顔! 服も。代わるよ、櫂は代わるから、顔を洗って」  「しかし、神官さまに漕がせるのは」  「いいから! 血まみれの人に漕がせてるほうがマズいよ!」 半ば奪い取るようにして櫂を手にすると、プタハシュペルは、小さくため息をついた。「…ごめんよ、俺のせいだ」  「お気になさらずに」 船べりから手を伸ばし、すくい上げた水で顔を拭いながら、ヘカネケトはいつもの淡々とした口調で言う。  「試練も、神々の思し召しです」  「…なんか、そんな風に言われると、俺の立場が無いんだけど」  「神官さまは、そうは思われないのですか」  「そりゃどうしようもない時もあるだろうけどさ、避けられるものは自分で避けなきゃ。勝手に鰐の巣に突っ込んで、神の思し召しだとか言ってたら、神様だって自分のせいじゃないって笑うと思う」  「……。」 ヘカネケトはふいに手を止めて、不思議そうな目でプタハシュペルを見つめた。  「えっ、何」  「…いえ」 何か言いたげな顔をしたように思えたが、彼は、それ以上は何も言わなかった。  行く手に、ようやく小さな街が見えて来た。思っていたよりちゃんとした、神殿と集落を持つそれなりの大きさの集落だ。  あそこなら、しばし休息を取り、星の目撃者を探し、道を聞くことも出来るだろう。  半ば沈みかけた船を街はずれの港に乗り捨てて、真っ先に向かった先は、街の中心にある神殿だった。  緑の色が鮮やかに塗りつけられたその神殿は、川の下流で広く信仰されている蛇女神、ワジェトに捧げられたもののようだった。  「お、赤冠だ。へえー、綺麗な色だなあ。」  「ワジェト女神、赤冠の守り手、ですね」 ヘカネケトは、プタハシュペルがまだ何も言わないうちから、壁に書かれている文字を読み取って判読しているようだった。  「読めるんだ。書記にはなれなかったって言ってたけど」  「……。」  「あ、ごめん。責めてるわけじゃなくて、…っと。ここの神官さんに先に話して来なきゃ」 神殿の入り口の先には、水蓮の植えられた小さな池と、手入れされた木立の並ぶ庭がある。プタハシュペルの白い神官服は、ここまでの旅と船の浸水のせいで泥まみれになっている。  奥から出て来た女性の神官は、彼の格好を見て苦笑した。  「まあま、随分と酷い格好ですねプタハの神官さま。冥界でも旅して来られたのですかしら」  「冥界巡りは、入り口までで済みました。宿を借りたところが強盗宿で、危うく冥界に送られそうになったんですが…」  「それは、難儀でしたこと」 白い衣の上から、女神の名の由来でもある緑の帯と、女神の守護する冠の色である赤のたすきを交互にかけた女性神官は、ちらと彼の後ろにいるヘカネケトのほうに視線をやった。  「お供の方は、それで、あんな目に?」  「はい。彼の手当と、それと…船に穴が空いてしまったので、修理したいんです」  「では、施薬処をご案内いたしましょう。それから街の船大工を呼んでこさせますよ。その、汚れてしまった衣も着替えられたほうがいいでしょう」  「助かります。えっと…それから」 プタハシュペルは、思い出したように、荷物の中から証文を取り出した。大神殿を出る時に、「他所の村や神殿に助力を求める時は見せるように」と渡されたものだ。  「これを見せるようにと言われました」  「ふむ。お預かりしましょう」 巻物の表面に施された泥封の印を見て、神官は神妙な顔つきになっていた。どうやらプタハシュペルの着なれない神官服などよりも、そちらのほうがずっと、威力を発揮するものだったようだ。  着替えを済ませたあと、神殿内を見て回ろうとしていたプタハシュペルは、奥の至聖処に続く回廊に立って、ぼんやりと壁画見上げているヘカネケトを見つけた。声を掛けようとして、ふと気づく。どうやら施薬処で手当てを受けてきたらしい彼には、額と腕に包帯が巻かれている。しかも右手は、固く包帯で結ばれて、首から吊るされているではないか。  「その腕、どうしたの」 ゆるゆると振り返ったヘカネケトは、ばつが悪そうな顔をして俯いた。  「手首を痛めている、と言われました。腫れていたので、しばらく動かすなと」  「腫れて? …あっ」 そういえば、今朝、あの老婆に打ちかかられた時、彼は、顔を庇おうととっさに右腕を掲げていた。あの時だ。あの力任せの攻撃は、額だけでなく、本当は腕にも命中していたのだ。  「痛かっただろ? どうしてもっと早く言わなかったんだ。」 プタハシュペルは、思わず厳しい口調になっていた。「それなのに、櫂を漕ごうとしてたなんて…」  「何でもないと思っていました」 溜息まじりに、ヘカネケトは言った。  「これでは、もう…お役目は果たせそうにありません。申し訳ありません」  「何言ってるんだ。あんたがいなきゃ、俺一人じゃこんな役目、無理だよ。櫂なら俺が漕ぐし、荷物も持つから。ごめん、ほんとに。何もかも任せっきりにして」  「しかし…」  「いいから、一緒に来てくれよ。じゃなきゃ、俺一人じゃ朝飯だって作れないんだから」 ヘカネケトは俯いた。頷いたのか、納得したのか、それともただ、口を閉ざしただけなのかは分からない。  彼は、視線を、さっきまで見上げていた壁画に戻した。  そこには王の被る王冠の一つ、赤冠を戴く蛇の姿をした女神の絵がある。隣にはもう一つ、白冠を戴く蛇がいる。  メンネフェルの大神殿を中心に、そこから川の上流と、下流とに分かれた「二つの国」の、それぞれの王冠だ。赤は下流の、「下の国」の王を意味し、白は上流の、「上の国」の王を意味している。この神殿の祭神は、下の国の王冠を守護する蛇女神。緑の湿地帯の(ぬし)だ。  「見えないのです」 ぽつりと、ヘカネケトは呟いた。  「赤い冠は、ぼくには見えない」  「見えない、って…そこにあるのに?」   「形は分かります」 何を言おうとしているのかが分からずに、プタハシュペルは、眉を寄せて壁の絵を、隣の青年と同じ場所を見つめた。  「――血の色も、分かりません。さっきあなたが慌てていたように、ひどい出血だと医者に叱られましたが、見えないのです。この世界の色は、特に赤い色は、何も」  「…もしかして、色が…分からない?」 彼は、小さく頷いた。  「生まれつきなのです。青だけは辛うじて、少し分かりますが――赤い顔料の色は黒と見分けがつきません…」 だから分からなかったのか。自分が血まみれだということも。 だから書記になれなかったのだ。書記は赤と黒の二色の顔料を使い分けなければ仕事にならないから。  「役立たず、と言われてきました。」  「そんな、…」  「書記も、工芸士も、絵師も、神官も、色が分からなければ出来ないのです。ずっと夜警の仕事をしていました。夜ならば、色が無いから。それで…このお役目を言いつかって…初めて、認められたような気がした…」 消え入るように声が小さくなって、彼は、口を閉ざした。プタハシュペルには何も言えなかった。自分は命じられたのだからと仕方なくこの任務に赴いていたのに、彼はずっと、最初から、そんな思いつめた気持ちで同行していたのだ。  「必ず『天の石』を見つけよう。それで、二人で胸張って帰ろう。ね、ヘカネケト。俺だって、見つけなきゃ家にも帰れないんだ。一緒に行こう」  「ありがとう、ございます…」 ぺこりと一つ頭を下げて、彼は回廊を、神殿の奥の薄暗いほうへと消えていく。色の見えない彼にとっては、昼の世界といえど冥界の闇とそう変わりないのかも知れない。生まれた時から一度も色を見たことがない、という感覚は、プタハシュペルには分からない。ただ、今この昼の光の中で、中庭にそよぐ鮮やかな緑や、水蓮の鮮やかな色が無いと考えたら、それだけで胸が苦しくなる。  青だけは少し見える、と言っていた。  青い空。天の女神の身体。プタハ神の青い冠。青は、この世にあらざる色。神々の色だ。  「ここらいらしたのですか」 ヘカネケトが去っていったのとは反対側のほうから、さっきの女性神官がにこやかにやって来た。  「船のほうは、船大工に修理させています。それと、あなた方のお探しの『天の石』のことですが、目撃者は見つかりました」  「本当ですか?!」  「ええ。この神殿の門番を務めている者が、十日ほど前の夜明けに空を横切る大きな光を見たと言っています。それは東のほうから来て、西のほうへ去って行った、と。」  「西…」  「ここからですと、海沿いのどこかでしょう。川の支流のずっと奥の方です。支流から海に繋がる湖に出て、その先を探してみるとよいかもしれません」 つまり、探している石は海か、その湖に落ちたかもしれないということだ。  プタハシュペルの表情が暗くなったのに気づいて、神官はなぐさめるように微笑んだ。  「心配要りませんよ。大神とて、人に受け取れぬ贈り物はなさならないでしょう。きっと水辺に分かりやすく落ちているのです。街に落ちて誰かの手に渡っているよりは、よろしいのではないですか?」  「そうかもしれません。…そうですよね。ありがとうございます」  「いいえ。お役に立てたのなら、何よりです」 言ってから、ふと、彼女は回廊の、壁画のほうに視線をやった。  「…とはいえ、果たして本当に、天の大神は今の王をお許しになられたのでしょうか? 以前の王は全ての神々をないがしろにし、自らの傾倒した太陽神にだけ祈りを捧げました。今の王も、その家系に連なる者のはず。――この神殿も一時は閉鎖されそうになりました。許したから、贈り物をしたのでしょうか…。」  「分からないけど、神様は人間みたいに恨みがましくないってことじゃないですか」  「メンネフェルの大神様は、そういう方なのですか?」  「お会いしたことはないけど、長生きされてる方だから、人間のそういうところだってきっと慣れてると思う」 言ってしまってから、プタハシュペルは、何となく神官らしくないことに気づいて少し言い直した。  「…人間は不完全なものなのだから、迷いやすいのも仕方がない、と、大神官さまはいつも言ってます。」  「そう、なるほど。」 納得したのかどうかは分からなかったが、女性神官の雰囲気は、ほんの少し和らいだ。  「私はワジェトゥイといいます。もしこちらへ戻られる時があれば、是非また立ち寄って下さい」  「はい、ご縁があればまた」 ワジェトゥイと別れて歩き出しながら、プタハシュペルは、今更のように恥ずかしくなっていた。まるで一人前の神官のようにしたり顔で会話していたけれどよく考えれば、彼はまだ「見習い」なのだ。それに大神殿の教義が難しくて覚えられない、ある意味で落第生のような立場なのに。  (ああ、余計なことを言ったなぁ…。あとで大神官さまに叱られなきゃいいけど…。) 川べりに出てみると、船は、もうすっかり修理が終わろうとしているところだった。  やって来たプタハシュペルはの姿を見て、太い腕をした船大工はにっこり、胸を張る。  「船底のほうは、しっかり直しときましたよ。油も塗り込んどいたんで、明日の出発は快適に行きます」  「助かるよ、ありがとう」 とはいえ、この先、船で行ける距離はもう、それほど長くはないはずだ。  (西の方、か…) 河の向こうに視線をやって、彼は少し溜息をついた。海を見たことは、まだ無い。けれど川の先に、湖などよりももっとずっと大きくて、常にうねっている巨大な塩辛い水たまりがあることは、知識として知っている。  大いなる緑(メル・ワジェト)。  葦や茅に覆われた緑の湿地帯が海と一体になる場所のことを、人々は、そう呼んだ。  緑に揺らめく塩辛い海の向こうは、この国の神々の力も及ばざる遠き異国だ。そう、プタハシュペルが今から向かうのは、この国の北の果て、海で区切られた国境なのだった。  神殿で一晩を過ごし、翌日、プタハシュペルは洗ってもらって泥を落としたプタハ神官の服を再び纏い、ワジェトゥイに礼を言って、街を後にした。  ヘカネケトも、片腕を吊ったままでついてくる。プタハシュペルが櫂を持ち、船を出すのを、彼は申し訳なさそうな顔で見守っていた。  「いいんだよ、そんな顔しなくても。人間は二人いるんだ。一人が怪我をしてるなら、もう一人がそのぶん働くのは当たり前ことさ」  「……。」 風は穏やかで、今日は幾分か暖かだった。メンネフェルの大神殿を発って来た時よりも春めいて、季節は確実に移り替わろうとしている。  (十日経ったなら、一デカン分、暦が動く。守護の星が変わる。今は…) 川べりの村々では、大麦の収穫が始まっていた。波打つ黄金色の穂が刈り取られ、束ねられて、天日干しにするために逆さに吊るされていく。村人たちの歌う、麦刈り歌の楽しげな声が微かに聞こえてくる。きっと今ごろは上流の、発ってきたメンネフェルの辺りでも、収穫が始まっているのだろう。  川の流れは向きを変え、船は、湖へと続く細い支流へと入っていく。その時には、川の水と海の塩辛い水とがまじりあう、大きな湖があるはずだった。
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