第五話 王の短剣 

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第五話 王の短剣 

 大神殿への帰途は順調に進んだ。  川の流れに任せて下るのではなく、帆を張って風の力で遡らねばならなかったぶん時間がかかったが、二人は無事に帰還した。  出て行った時はまだ肌寒い季節だったというのに、戻って来た時にはもう畑の刈り入れも終盤に差し掛かり、川べりには春の花が咲いている。履物は擦り切れ、白い衣は黒く汚れ、剃る暇も無かった頭には、もじゃもじゃとした髪の毛が生えそろっている。大役を果たして戻って来たという達成感よりも、疲れ果てていた。  大神官のシプタハへの報告もそこそこに、プタハシュペルは床につき、丸一日の惰眠を貪った。それから、ご馳走をたらふく食べ、ようやく元気を取り戻した。  改めての報告と、労いのために呼び出されたのは、それから数日たった時のことだった。  「お勤め、ご苦労であったな。プタハシュペルよ。『天の石』が無事に届いたことは、ウアセトの王のもとへ知らせを出している。じきに返答が来るだろうが、あれは王のための装身具として、この街の工房で鍛えられることになると思う。プタハ神の守護下なるこの街には、優れた鍛え手もおるのでな」  「はい…あの、それで、ヘカネケトは?」 謁見のために呼び出された内陣に、旅路の同行者の姿がないことに落ち着かず、彼は辺りに視線をさ迷わせた。  「あの者には、褒美を取らせて家に帰らせた。少し休んでから。仕事に復帰してくるだろう」  「それだけ?」 プタハシュペルは思わず声を上げた。「俺、あの人にずいぶん助けられたんですよ」  「彼も同じことを言っておった。お前のお陰で、前向きに生きていけそうだとな」  「俺の? …俺、何もしてないんだけど」 シプタハは苦笑して、不思議そうに首をかしげている年若い神官を眺めやった。  「お前は、そういうところなのだ。何にも考えておらんのだな」  「はあ…」  「何にも考えずに、理解しておるのだ。」  「はあ、すいませ…ん?」 顔を上げると目の前に、にこにこしたシプタハの顔がある。  「のう、プタハシュペルよ。お前は神殿の教義が難しすぎて分からん、とよく言っておるそうだな」  「あっ、…はい」  「実を言うとな、わしもよく判らん」  「へ? 大神官さまが、ですか」  「ああ、そうだ。難しすぎるのだ。世界のことわりや、神々の世界の真実は、人間の理解の範疇には収まらんのだ。それを無理やり、言葉にしようとして書くと、誰にも良くわからん、何やら有難そうで意味のないものになってしまうのだ。本当のところを理解したくば、目に見える言葉だけに囚われるものではない。デタラメすぎてもいかんが、言葉にせずに理解できるなら、それに越したことは無い。お前はそれで良いのだ。今のままでな」 褒められているのか、けなされているのか、よく判らない。  眉を寄せたまま首をひねっている彼を見て、シプタハはからからと笑った。  「良い、良い。お前はそのままで、そういう役目の人間なのだ。お役目を務めあげたお前も、もう、一人前の神官だな。これから着任の儀を行うぞ。明日からはもう、先輩たちに混じって仕事をするのだ。」 大神官が合図をすると、控えていたヘルケプシェフが、神官用の袈裟を運んでくる。旅に出る時に身に着けた借り物ではなく、彼自身のためのものだ。  驚いているプタハシュペルの目の前で袈裟を広げると、ヘルケプシェフは、うやうやしく後輩の肩にかけながら言った。  「お前は白き城壁の主のしもべとして求められた。これからは共にお仕えしよう。…おめでとう、プタハシュペル」  「え、…えっと。はい…がんばります…。」 外は明るい昼の陽射しの中、神殿の中は仄かに薄暗い。本当なら、冥界の神はもう眠りに就いているはずの時間だった。けれど、何故だろう。不思議と、神殿の奥からは、何かの気配が、視線が、こちらを見ているような気がしていた。  ヘカネケトと再会したのは、それから数カ月して、夏が始まり、川が増水を始める頃だった。  会えなかった理由を知ったのは、夏の祝祭のための準備のために、神殿所領内の村を周っていた時のことだった。再会した彼は、職を変えていた。――工房で、装飾品の下絵師になっていたのだった。  「お久しぶりです。神官さま」 清々しい顔でそう言ったヘカネケトの表情からは、もう、以前のような暗く沈んだ気配は消えていた。  「以前習った書記の知識を、下絵に使うことにしました。…彫り物の碑文の下書きなら、使う色は黒だけで済みますから」  「そっか。そのほうが、あんたには合ってると思う。手先が器用だし、頭もいいから」  「神官さまは、…神官さまになったんですね」  「うん、まあ」 一人前の神官用の袈裟を照れたようにひっぱりながら、プタハシュペルは笑った。  「そうだ、あの石――、一緒に探しに行った、あの『天の石』ですが、この工房で短剣に鍛えなおしたんです。鞘はまだ作っている最中なんですが、中身はもう出来上がっています。見て行かれますか?」  「本当? ぜひ見たい!」  「こちらです」 ヘカネケトは、工房の奥へと案内してくれた。絵師や書記の仕事は鍛冶仕事でも石工でも宝飾職人でも共通だから、ここでは、複数の工房が長屋の中に軒を連ねるようにして並んでいる。  出来上がった短剣は、鍛冶場の隣の部屋に置かれていた。箱に入れられて、上等な布に包まれて、貴重品だからか、見張りの兵士までついている。  「これですよ」 ヘカネケトは、布を開いて黒く輝く刃を光に翳して見せた。色は黒と銀の中間のようで、表面に、うっすらと紋様のようなものが見える。小ぶりだが上等で、腕のいい職人によるものだと一目でわかる。  「これから柄と鞘が、黄金で出来上がってくるんです。そうしたら王様に献上するそうですよ」  「ふうん…そうなんだ…。」 正直に言えば王のことは、あまり興味も無かった。王様がそれをどうするのかも、ピンとこなかった。ただ少しだけ気になっていたのは、これが「天からの贈り物」ならば、その贈り先というのは実は王様だったのだろうか、ということだ。  ――受け取りにいったのは、自分たちなのに。  もちろん、自分たちのために寄越してくれたものだなどとは、思いあがっていなかったけれど…。  「喜んでくれるといいね」 それだけ言って、彼は短剣を仕舞い、ヘカナクトと別れた。他にも周らねばならないところはあったし、ヘカナクトが何所で働いているのかはもう分かったのだ。非番の日にでもまた、ゆっくり会いに来ればいい。  割り当てられた村を周り終え、大神殿に戻ると、先輩神官のヘルケプシェフが待っていた。  「お帰り、プタハシュペル。村の様子はどうだった」  「いつも通り、特に何も…って感じでした。」 取り立てて心配事もなく、普段通りといったところ。今年は川の増水も、多すぎも、少なすぎもせず例年通りで、翌年の収穫量も変わりないだろう。いくつかの村では祭りに合わせて結婚式が行われ、何軒かの家では三歳を迎えて乳離れする赤ん坊の正式な名前を相談され、帰って来る途中では葬式を見かけた。そう、全てが普段通り。ただ一つ、話題があるとすれは、途中で立ち寄った工房で見たもののことだった。  「そういえば――『天の石』、短剣にして王様に献上するって聞きました」  「ああ、あれか。そろそろ出来上がって来る頃だな」 ヘルケプシェフは、妙に遠い目をして言った。  「あれは本当に、天の神々のご意思だったのだろうかな…。」  「何ですか、今更そんなこと」  「いや。これで何事もなく、あの王家が存続出来るかどうか、と思ってな。お前は覚えていないんだろうが、昔の王様の頃、色々あったからな…。」 ふっと笑って、彼はそれきり、口を閉ざした。ここは神殿の中なのだ。たとえ人気が在ろうと無かろうと、正式な手続きを経て王となった者は、地上における神の代行者となる。そしてこの古都の大神殿は、いにしえの時より、その王権を支えることが定めなのだ。  皆、不安なのだと思った。  今の王が、また、突然、神殿を閉鎖すると言い出さないか。古来の伝統とは違う、別の神を崇めて、人々の頼る神々を追いやってしまわないか。病気の時に祈る神や、葬儀で名を呼ぶ冥界の神や、豊作を祈る豊穣の神がみんな居なくなってしまったら、それは――とても不安になるに決まっている。神は、「存在することそのものに意味がある」。必要とされる時、そこに居てくれる、という安心が必要なのだ。  川の水がゆっくりと満ちて、時と共に流れてゆく。  天の高みにソプデトの星がゆらめき、増水期が本格的に始まる。星を読む者たちは暦帳に、季節の変わり目を印す。  黄金の鞘に包まれた見事な短剣は、その年の増水期の終わりには、上流のウアセトへ向けて運ばれていった。それきりプタハシュペルが目にすることもなく、数年後、早すぎる王の死の報せとともに噂を聞いた。  それは、「天の石」は、王の守り刀として、共に墓に葬られた、という噂だった。  王がどのように死んだのか、詳しいことは誰も知らなかった。神の怒りに触れたのか、本人の不運であったのかも分からずじまい。王家の血統は途切れ、結局は、軍司令だった将軍が跡を継いだという。  墓に隠された短剣が再び世に出るのは、それからおよそ三千年後。  神々の目も見渡せぬ、はるか未来(さき)のことであった。 [了]
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