第一章 吐血の刺客

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第一章 吐血の刺客

 上野・寛永寺の車坂下の門前一帯は、月に五日間だけ、参詣者の肩身が狭い。  四日と十日、十六日、二十日、二十六日に限って開かれる囲碁「本因坊道場」を目指す人々が、参詣者を押しのけ、その道場を目指すのである。寺の門前は、縁日以上に熱気を帯びる。両刀を携えた白衣に着流しの御家人や、長羽織のしゃれた旦那衆などが、陽が昇る頃から、二十畳ほどの板張り道場へ吸い込まれていく。道場は町屋を改装した質素なつくりだが、碁を打つのには申し分ない。  隣の長屋には村瀬という貧しい大工が住んでいた。「宮大工」という触れ込みだが、江戸で頻発する火事の建て替えを主な仕事としていた。後に、この大工の倅が本因坊道場に入門し、幕末から明治まで激動の生涯を送るが、この時はまだ、この世に生を受けていない。  道場に集まる人の身分は多種多様だが、道場内では身分を問われる事はない。棋力だけが上下を支配する世界である。身分社会において、碁盤を囲む時だけは「平等」であった。  それがためか、江戸の人々は碁に熱中した。碁を楽しみ、智力を練り、上達する事だけを純粋に楽しむ余裕を「粋」と感じる心が、江戸の人々にあった。
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