社の下

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社の下

 ないしょよ?  その子は、くすくす笑いながら私を手招いた。    まだほんの子供だった頃の話だ。あれから何年も経つし、あまりに浮世離れしすぎていて、今では夢だったのか現だったのか自信を持てなくなっている。  民家の外れの、畑を何枚も歩いた先にある小さな社。その縁の下を覗き込む少女は、当時小学校に上がったばかりだった私よりも少し幼く見えた。  泣き腫らした目で少女の視線の先を覗き込む。すると暗がりに赤い光が二つ浮いていて、私はひっと息を詰まらせて飛び上がった。その拍子に尻餅をついて、両腕で抱えていた繊細な一輪挿しを取り落としてしまった。 「あっ」  仄碧い白磁で出来た母の気に入りの花入れだ。それが無残に砕けて足元に散らばっている。 「だいじょうぶよ」  目に更に涙を滲ませる私を見て少女が微笑む。私の頰を撫でて、可愛らしく小首を傾げる。そっと手を握られると妙に安心した。  白磁の花入れは、今落としたせいで壊れたのではなかった。家で遊んでいるときに倒してしまい、細い首を折ったのは私の仕業だ。それを抱えて泣きながらここまで逃げてきたのだ。  咎められることが怖かったのか、母に申し訳ないと思ったのか、そのあたりはもう憶えていない。ただ、己の失態を隠したかったことだけは鮮明に憶えている。  辿り着いた社の境内には先客がいた。赤い着物のおかっぱ頭の女の子だ。その子は私を認めるとにこりと笑った。  田舎の小さな社は神主もいなければ社務所も無い無人の小さな祠で、だから普段は人影も無い。私はこっそりと失敗を隠すつもりでそこまでやって来たのだ。それなのにニコニコと笑う少女に迎えられて私は怯んだ。 「ないしょよ?」  私は何も言わないのに、こちらを手招いて社の下を覗き込む。そうして私は無様に転んで、首の折れた花入れは砕けたのだ。 「だいじょうぶ。いたくないよ?」  少女はそう言って私の手を引いた。ひんやりとした吸いつくような手だ。私を安心させて、同時に言いようの無い不安を連れてくる。  何が大丈夫なのか。痛くないとはどういうことか。私はよく訳も分からないままに引いて行かれて、社の下に押し込まれかけたところで抗った。 「いやだ!」  先ほどの赤い目が私を見ている。赤い目。そうだ、目だ。暗闇に浮く光はの目だった。それがじっと私を捉える。瞳も無いのに。ただ仄かに滲んで光っているだけなのに。捕らえられたのだと、もう逃れられないのだと、本能的に悟る。  恐ろしくなって暴れる私を、幼いはずの少女が易々と押さえ込んだ。冷たい手を両肩に置いて、耳元に唇を寄せる。 「だいじょうぶ。こわくないよ」 「うそ。いやだこわい」  泣き叫ぶ私の耳元で少女は囁いた。 「おかあさんの花入れ、もとにもどるよ」 「え?」  くすくすと笑いながら、少女は私の背をぐいと押した。 「いやぁ!」  半狂乱で這い出そうとする私を、微笑みながら押し戻す。小さな落ち着いた手は、取り乱した私よりもずっと力が強かった。何度撥ね除けても、すぐに目の前に翳される。 「だいじょうぶ。すぐおわるよ」  くすくす。くすくす。  少女の笑う声が聞こえる。ずっと。 「やだ。いやだ……助けて」  それは確かに痛くはなかった。だけど怖くないというのは嘘だ。怖くて、苦しくて、涙が溢れる。赤い目が私に絡みつく。絡んで、絞って、捥ぎ取ってゆく。 「ね? だいじょうぶだったでしょう?」  やっと解放されて社の下から這い出すと、少女が私を見て笑った。大丈夫なことがあるものか。私は怨みがましく少女を見上げた。  こうやって下から覗いているからだろうか。年下だと思っていた少女が、私よりも年嵩に見える。 「ほら。花入れももとにもどったよ」  そう言われて見た地面には、ひとつの欠片も落ちていない。 「どこにやったの?」  詰るような私の声に動じる様子もなく少女はくすくす笑った。 「もとどおりよ。おうちよ」 「うそ」 「ほんとうよ」  少女の言葉を信じた訳ではない。でも私は、この恐ろしい場所から一刻も早く逃げ出したかった。早く逃げなければ、またあの赤い目に引き込まれるかもしれない。痛くはないけれど苦しいあれをまた味わうのは嫌だった。 「ないしょよ」  走り逃げる私を追いかけるように少女のくすくす笑いが響く。  私は、振り返りもせずに石段を駆け下りた。
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