約束

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約束

 あれは夢だったのか、それとも(うつつ)だったのか。  家に帰ったら、母の花入れは元の場所で元の通りに花が挿されていた。  重いスーツケースを引き摺りながら石段を上る。  あれは夢だったのか現だったのか。あのあとも何度か社を訪れたような気がするのだけれど、よく憶えていない。それでも、祈るような気持ちでここに来た。境内に赤い着物の少女がいやしないかと。 「もう来ちゃ駄目って言ったのに」  雑木と竹の木立から注ぐ光のなかに、美しい娘が立っていた。赤い着物に長い黒髪を垂らしてこちらを見遣る。咎めるような視線だ。 「もう残ってないって言ったでしょう?」  そうだったろうか。私は憶えていない。でもやっぱりあれは現だったのだ。赤い着物で立っているのは少女ではないけれど、私だってもう大人になったのだからそれは当たり前のことだ。 「お願い。もう、どうしようもないの」  私はスーツケースを放り出して社の下を覗いた。赤い光が二つ、こちらを見つめる。言い知れぬ安堵が私を包んだ。ああよかった。助かった。 「駄目よ」  止める娘の手を振り払って私は縁の下に潜り込んだ。赤い目の脇から黒い手が伸びて私を引き寄せる。大丈夫、痛くはない。だってもう、何度も経験して知っているもの。ちょっと苦しいだけ。まるで何かを搾り取られているみたいに。  何本もの手が私に絡みつく。  苦しいそれは私に安寧を運んでくれる。犯した罪を無かったことにしてくれる。  強く締めつけられて喉が鳴る。久し振りだ。最後にここに来たのはいつだったか。ああそうだ。彼が大切にしていた釣竿をうっかり折ってしまったときだ。再々訪れていたのにどうして忘れていたんだろう。  ぎゅうっと締め上げられて骨が軋んだ。苦しい。でもすぐに解放されるはず。いつだってそうだったもの。 「駄目よ」  声が聞こえる。 「もう残ってないって言ったでしょう? あなたは使い果たしてしまった。この前が最後って約束したのに」  約束? そうだったかしら?   でも今回は本当にシャレにならないんだもの。何とかしなきゃ。どうにかして隠さなきゃ。 「安心して。スーツケースはもう空っぽよ」  いつもくすくす笑っていた声が、今日は悲しげに響く。その声が老け込んだように感じるのは気のせいだろうか。 「あなたも空っぽ」  ぎちぎちと骨が軋む。無数の手が絡みつく。私は苦しくなって踠いた。今日はなんだかしつこい。それに手の数がどんどん増えて、覆い隠されてしまいそうだ。苦しい。たすけて。何とか逃れようと手を伸ばす。 「嘘……なんで?」  溶けた肉と皮が垂れた白い指。それが目の前で関節からぽろぽろと崩れてゆく。 「もう来ちゃ駄目って言ったのに。ここのことは忘れてってお願いしたのに。あなたはもう、それ以外に差し出すものを持っていないでしょう?」  嘆く声はもう聞こえない。  黒い手のなかで、私はぼろぼろと崩れていった。
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