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(歌、現代語訳)
『今宵は望月、貴女を思い私の心もこの月のように満ちております、今夜の月を貴女とともに見たいものです』
四の宮の邸宅で一人娘の伽羅姫が頭弁の御文を読んでいる。
薄様紙に香るは侍従の香、秋の焚き物である。歌と同じで何の捻りも面白味もない。まあ、艶やかな墨の色や手跡から真面目な人柄は感じられるが。
侍女の紀伊が衣擦れの音をさせて入ってくる。
「姫様、表で頭弁の使いの者が、今日こそは返事をもらうまで帰らぬと申していますよ」
「放っておきなさい」
「よろしいのですか、一度もお返事をされていませんよね」
「やすやすと返事をしては四の宮家が安く見られると言うもの」
「もう半年ですよ、さすがに次はございませんね」
紀伊がぴしゃりと言う。
「では、お前が代わりに書けば良いでしょ」
(歌、現代語訳)
『お心を日々移り変わる月に例えるなんて、今宵が望月なら私への思いなど今後欠けていくしかありませんね』
六条の館で頭弁が届いた御文を読んでいる。
なんの捻りもない紋切り型の歌。手跡も可もなく不可もなく。おそらく侍女が代わりに書いたものだろう。
ただ焚き染められた侍従には秋の物悲しさだけではない何かを感じる。蜜ような甘さ、きりりとした苦さ、大きく吸い込むと頭から爪先まで清々しい風が通りすぎる。伽羅を、それも逸品をほんの少し多めに加えてあるのか。おそらくは四の宮家が姫の為に調合した特別なものであろう。
高嶺の花の伽羅姫はお可愛らしく、少し手厳しい方でいらっしゃるのだろうと笑みがこぼれる。
「なんですかね、あの高慢な姫は。半年待たせた御文がこれですか」
乳兄弟の実成がうんざりしたように呟く。
「これが恋の醍醐味というものだ、実成にはわかるまいが」
「色恋に疎い貴方様に言われたくはありません」
実成の言葉に、頭弁は涼しげに笑う。
杯に映した月を眺める。今宵は見事な望月である。昼のような明るさでありながら凛と澄んでいる。誰かと語らいながら見たいものだなと頭弁は思う。姫からの御文をもう一度開く。焚き染められた香が胸を締め付ける。会いたい。
そのころ四の宮家では伽羅姫が脇息に寄りかかって独り言ちていた。
「大体、弁官風情が宮家の姫に御文など、図々しいにも程があるのよ、大納言や大臣ならいざ知らず」
「お言葉ですが姫様、弁官は宮中を取り仕切る立派なお務め。後ろ楯もなくご自身のお力だけであの若さで左中弁となり、この度主上の覚えもめでたく蔵人頭を兼ねて頭弁にられた方ですよ」
「それがどうしたと言うの」
「家柄だけで少将や中将になった方よりよほど頼りになるというもの。そもそも大納言や大臣などみな爺さんではないですか、姫様はそれでよろしいのですか」
「そんなこと、言われなくてもわかっている、私はただ…」
紀伊が御簾を巻き上げる。
庭の池に望月が映り水面は鏡のようである。虫の音が深とした静けさに彩りを添える。あれは鈴虫、松虫、興梠それとも轡虫。天上の管弦を聞いている心持ちである。誰かとともに耳を傾けてみたい。誰と?
「恋とはなんでしょうか」
伽羅姫が呟く。
「会いたい、ということではないですか」
紀伊の言葉に、姫が頬を赤らめる。
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