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「お疲れー」
「お疲れ様でーす」
pm5:00。
『丸伊貿易商社』の定時時刻、ロッカーはグレーの制服の女子社員でひしめきあう。
「由依、この前の合コンの神谷さん、その後どう?」
「どうって……」
未季のその一言で、由依は同僚たちの視線を一気に集めたことには気付かない。
「多分。もうお誘いないと、思う」
「えー、なんでなんで?!」
「いつものパターン。食事の後のお酒を三回断ると、大抵そうだもん」
「なんでそんな勿体ないことするの?! 神谷さん、この前のメンツで一番エリートでイケメンだったのに!」
「そうよ。みんな狙ってたのに神谷さん、由依にゾッコンで、泣く泣く諦めたんだから」
同僚たちの姦しい声の中、由依は呟いた。
「だって、うち門限九時だもの」
「えーっ!!」
その場に居合わせた皆から、一斉に驚きの声があがった。
「え、え、え?!? じゃあ、お泊まりなんかどうするのよ?」
「あ、わかった。女友達使うんでしょ?」
口々に皆が言い合う。
「ねえ。……二十五で」
未季は呆れて呟いたが、
「じゃ、お先」
と、由依はさっさとロッカールームを後にした。
◇◆◇
ニ十五歳で門限九時……。
そんなにおかしなことかなあ。
由依は、歩きながらのんびりと考える。
基本、残業はない仕事だから、たまに女友達と女子会をする分には、アフター5の夕食くらいはゆっくりできる。それは、異性とのおつきあいでも言えることだ。
それで十分じゃないかなあ。
中等科から大学までエスカレーターで女子校育ちだった由依は、男の人とのおつきあいの距離感が今一つわかっていない。
手を繋がれようとすれば、反射的にはらいのけるし、キスともなれば思い切り拒絶してしまう。
そもそも、一回や二回、食事をしただけで馴れ馴れしくそういう行為に至るプロセスが理解できない。
要は、男に対して免疫がない、の一言なのだが、由依にとっては、それが自然体なのだ。
男の人とお付き合いをしたくないというわけではない。
好きな本や音楽やそういう趣味事……そんな話の合う相手がいれば、何時間でも話してみたい。
でも。
男は、ろくに喋る前から由依に手を出してくる。
ニ十五歳の今、由依はすっかり男性嫌悪症と言って良い性格になってしまっているのかもしれなかった。
ま、どうでもいいんだけどね。
由依はマイペースで我が道を行く。
◇◆◇
「あれ? こんなところに……」
その日、会社帰りに新しい冬物のグレーのチェスターコートを選んで買った帰り道、由依は一軒のお店を見つけた。
「新しいカフェ……」
店の名前は『茶人』。
クールな店構えは、なかなか好奇心をそそる。
由依は、ゆっくりとその店の木製のドアを開けてみた。
「いらっしゃいませ」
迎えたのは、アラカン手前くらいの痩せたマスター。
店はそう広くはなく、由依はカウンター席のマスターの前に座った。
メニューを見ると、珈琲・紅茶の種類が多く、嬉しくなる。フードもサンドイッチやピラフ、ワンプレートフードなどがある。
「温かいロイヤルミルクティーとクロックムッシュを下さい」
由依がオーダーを告げると、マスターは「はい」と返事をし、目の前で手際良く調理を始め、そして程なくオーダーが由依の目の前に並んだ。
ポットでティーが供され、由依が一口飲むとミルクの割合が多い濃厚な味わいで、それは極上だった。
クロックムッシュには、薄切りハムと癖のないグリュイエールチーズが挟んであり、本格的なベシャメルソースが塗ってある。熱々の作り立てのそれは、少しお腹が空いていた由依にはとても美味しかった。
ティーとクロックムッシュを楽しみながら、由依は店の中をなんとなく眺めていた。
マガジンラックに置いてある雑誌は、男性向けはよくわからないが、女性誌では、由依の好きな『25ans』『CREA』『MORE』『SAVVY』が目に付いた。
他にも、三・四十代女性向けの雑誌に、『家庭画報』『美しいキモノ』まで揃っている。
「ここは、クラシック喫茶なんですか」
由依は、思い切ってマスターに話しかけてみた。
BGMがクラシックオンリーなのだ。由依が普段好んで聴いている音楽とそれは同じだ。
「そういうわけではないんですが。この音楽が一番落ち着くから、ここの有線をひいているんですよ」
マスターはにこやかに応えた。
その笑顔も気持ちがいい。
由依はその夜、その空間を心から楽しんだ。
◇◆◇
その翌日から。
由依は、会社帰りに『茶人』に寄るようになった。
美味しいお茶とマスターとのお喋りを楽しんだり、仕事がしんどかった日は静かに音楽に聴き入る。
一人でじっくりと好きな雑誌を読み耽ったりするのも至福の時間だ。
そんな日が二週間ほど続いた頃。
「こんばんわー」
由依が、いつものカウンターの定位置で、カプチーノを楽しんでいる時、一人の若い男性が入ってきた。
「おう。浩成。久しぶり」
マスターが、いつもの笑顔を更に崩して対応する。
「参ったよ、教授が無茶ぶりの研究課題出してくるからさ。ずっと大学泊まりだったんだ」
見た目、二十七、八歳。由依とほぼ同年代のその彼は、178㎝くらいのスレンダーな長身。焦茶色の虹彩の優しい瞳が印象的で、さらさらの黒い髪が清潔感のある青年だった。
彼は、由依の隣の隣の席にごく自然と座った。
由依は、彼の気さくな話しぶりにやや親近感を持ち、見るともなしに横顔を見ていたら、ふと目が合って慌てて視線を逸らした。
しかし、マスターが
「浩成。こちらのお嬢さん、最近のうちの常連さんなんだよ。由依ちゃん、こいつ僕の甥。京成大学の非常勤講師で……」
「須田浩成と言います。二十八歳。君は? 何、ゆい……?」
「あ……、私は河野由依です。丸伊貿易商社に勤めています」
「一流企業のOL嬢かあ。周りはエリートだらけでしょ」
「いえ、そんなことないです」
ごく自然に、そんな会話を交わし、そして、マスターと浩成、由依の三人で他愛ない世間話をした。
その内、他のお客さんが来たので、由依と浩成はお茶を飲みながら、二人でとりとめもない話に興じる。
「あ、もうこんな時間」
気がつけば、午後八時を過ぎている。
「ご馳走様でした」
薄い水色のニットのカーデを羽織りながら、由依はお勘定を済ませた。
「またおいでね」
浩成がにこやかにそう言った。
その笑顔は柔和で、愛嬌があり優しい。
「はい。また来ます」
由依もにっこりと笑んでそう言うと、『茶人』を後にした。
浩成さん、かあ。
由衣は今、別れてきたばかりの浩成のことを思い出す。
いい人……だったよね。
そんなことを思うと、自然軽くなる帰りの足取りを由依は一人楽しんだ。
◇◆◇
バスを降りると、すぐ北の道に折れ、上り坂を登っていく。
坂を登り切ったところの東側の家が、由依の家だ。
築二十数年の古い二階建ての家屋。
そこには、五十歳を過ぎた父と母。そして由依の三人暮らし。
母親はいつも手の込んだ夕食を用意し、普段は三人揃って夕食を摂る。
その晩。
「由依」
父親の啓司が、好物の大根とお揚げの味噌汁を吸いながら、切り出した。
「最近、帰りが遅いな」
「そう? 気に入ったカフェに寄ってお茶してるから」
「デートしてるわけじゃないの?」
塩焼きした秋刀魚の身を箸でほぐしながら、母親の佳津子が口を挟む。
「まさか。そんな相手いないもの」
「由依ちゃんはずーっとこの家にいていいのよ。お父さんとお母さんがいますからね」
「はあい」
そう返事した後、
「ご馳走様」
と、由依は二階の自分の部屋に引っ込んだ。
”ずーっとこの家……”
佳津子の言葉がリフレインする。
でもね。お母さん。
お父さんとお母さんは、いつか先に逝ってしまうのよ。
そしたら、由依は一人ぼっちになってもいいの?
今夜もぐるぐると同じわだかまりが由依の心を渦巻く。
それは、拭っても拭っても拭いきれない汚れのようにいつのまにか由依の心にこびりついたしこり。
由依の溜息は深く、いつしか部屋の片隅に消えて行った。
◇◆◇
それからの日々。
由依は、相変わらず『茶人』でのアフター5を楽しんでいる。
浩成(こうせい)は、『茶人』で夜、時々ウエイターのバイトをやっていて、週に一、二回顔を合わせる。
しかし、『茶人』はそうお客が多い方ではないので、バイトの傍ら、お喋りしている時間も長い。
由依と浩成は、共に音楽が好きというだけで話が尽きない。
由依はクラシックが好きで、浩成は流行りの曲はなんでも聴く。お互い、知らない音楽について吸収するその時間が有意義なのだ。
又、浩成が大学院で研究している分子生物学は、由依も大学時代、関連科目でマジメに勉強していたので、その方面の話もそこそこついていける。
何より、二人は相性が良かった。
何を話しても楽しく、会話が弾む。
浩成は、どこをとっても嫌味のない好青年だった。
二人は、『茶人』で同じ時間を共有し、お互いを理解していった。
◇◆◇
由依と浩成が知り合って、五か月が過ぎる頃。
「由依ちゃん、帰り、送っていくよ」
浩成が、『茶人』から家へ帰ろうとしているところに声をかけた。
「浩成さん、バイトは?」
「ああ。今日は早じまい」
そう言って、浩成と由依は二人で「茶人」を出た。
季節は三月。
早春の花冷えの夜、空気はまだ肌に冷たく、なんとなく無口に二人は歩いていた。
その時。
不意に、浩成は立ち止まった。
「由依ちゃん。俺の家、寄って行かない?」
「え?」
「俺のアパート、この近くなんだ」
「でも……。私、門限が……」
そう言い澱んだ由衣に、
「責任は俺が取る」
きっぱりと浩成は言った。
浩成は、そのままじっと由依の瞳を見つめている。
由依は、その焦茶色の瞳の深さに吸い込まれていった。
「浩成さん……」
由依の心が揺れて波立つ。
しかし。
由依は、浩成を信じ、ついていくことに心を決めた。
そして──────
その夜。
由依は、浩成の部屋に泊まった。
それは、由依の人生にとって初めての外泊、門限破りだった。
◇◆◇
翌土曜日の朝。
由依は浩成と二人、家の最寄りのバス停でバスを降りた。
「この上り坂を登っていくの」
由依の言葉に、浩成は由依の右手を握った。
由依は、そんなさりげない浩成の優しさが嬉しい。
早春の朝はやはり肌寒く、二人は寄り添うように仲睦まじく歩く。
坂の勾配はかなり急で、しかも長い。
二人は、これから待ち受けていることを思い、やや固くなりながら黙々とその段だら坂を登って行った。
そして、ようやく坂を登り切った時。
「わあ……」
由依は思わず小さな声をあげた。
ああ。
太陽が……。
目の前には朝焼けの大きな太陽が昇っている。
それは紅く、オレンジ色の光の塊で、酷く目に眩しい。
その時、由依は深い感動すら覚えた。
陽は高く、太陽の光が燦燦と降り注ぐ。
いつも、夜目の暗い時間しか見たことのなかった坂の上の景色。
それは、どんよりと暗い闇の底に沈んでいて、由依は年老いていく両親と自分の行く末を想い、いつもやりきれなかった。
けれど、今朝の眩さはどうだろう。
それは、いつも由依が見てきた景色とは全く違う。
それは、希望に満ち溢れた朝の風景だった。
何より今、隣には浩成がいる。
あの古い家で年を取っていくだけの自分たち家族に、ひょっとしたら、浩成と由依の子供だって生まれてくるかもしれない。
それこそは間違いなく、由依にとっての『希望』だ。
お父さん。
お母さん。
門限を破ってごめんなさい。
でも、由依は浩成さんとこれから二人で生きていきます。
由依は浩成の左手をそっと握り返した。
これから二人で生きていく人生の幸福を心から噛みしめながら。
坂の上の古い家に眩しい陽の光が射しこんだ朝だった。
了
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