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2、
「クソッ、何のためにお前らに、高い渡し賃を払ってると思うんだ」
行商人の罵倒はまだ続いていた。
船頭は首をすくめて、やり過ごしている。小舟はひとまず目の前の中洲に着けられた。客たちは中洲で下りて、船頭自身は、水漏れ箇所を探り始めた。紫色の妙に派手な下帯が丸見えになるくらい、着物の裾をからげて船底を見ている。その船頭に、
「おい、すぐに直るんだろうな?」
と作業を覗き込んでは、まだ喧しく怒鳴っている。そんな行商人とは逆に、女は途方にくれた様子で水辺をうろうろしている。
タルスは小舟から離れて、中洲の真ん中に向かった。端と端に立ってもお互いの顔が分かる、そんな程度のこぜまい土の部分は、ほとんどが葦や地衣類で覆われている。それだけに、不釣り合いに中央に聳えるそれは、不気味だった。
廟宇は、表面が滑らかな黒い石を数個縦にして立て、ひと塊の柱のようにしている。近づいて見ると石肌に、古代文字か呪紋か分からぬ奇怪な文様があった。計り知れないほど昔に刻まれたそれは、磨耗していても尚、邪な力を有しているように感じる。
廟宇を覆う植物も、周りとは異質だった。黒紫の蛇体のような太い蔓が幾筋も黒石に絡みついて、それが空に向かって寄り合わされるように一体化し、そこからさらに周囲に拡がっているのだった。
通常、蔓植物は支えとする物より高くはなれないはずなのだが、一体どういった構造になっているのだろう。葉はなく、蔓の表面には小さな棘のような部分がびっしりとついている。見ていると、棘に切れ目があった。軽く指で触れてみる。すると棘は蕾のように開いて、中から吸盤めいた器官がニュッと出てきた。
ーー生きている。
訳もなくゾッとした。植物が生きている、という当たり前のことが、酷く禍々しく感じる。
タルスは何気なく小舟を見遣った。というのも、行商人の喚き声がすっかり聞こえなくなっていたからだ。
ふと、眉をひそめる。霧に巻かれてハッキリしないが、男の様子がおかしいように思えた。精気に満ちていた上背が丸まり、力が抜けて見える。
「おい……」
タルスが声を掛けたのと、それが男を襲ったのが同時であった。
白い闇を突いて飛び出したものが、男に肉薄した。大蛇のようなそれは、行商人の脚に到達するや、するすると絡みついていく。男はたちまち、均衡を失い、引き倒された。
巣穴に戻るようにそれが、男の脚を巻いたまま還ろうとする。行商人は、声にならない叫びを挙げて抵抗した。両手がむなしく土を掻いた。しかし腕に力がなく、ずるずると引き摺られていく。
タルスは怪物に殺到した。
小舟の方からも船頭が、行商人に駆け寄って来た。手に櫓を握りしめている。一足早く着いた船頭が櫓を振り上げる。
信じられないことが起こった。
船頭の振りかぶった櫓が、怪物ではなく、行商人をハッシとうち据えたのだ。
「何をする!」
タルスは行商人に飛びついたが、僅かに遅かった。屠殺場の獣めいた悲鳴を残し、男は一気に飲み込まれた。忌まわしい水音がした。川に引き込まれたのだ。
茫然となったタルスは、激しい衝撃で我に返った。咄嗟に防御態勢をとった。瞬時に気息を整え、全身を巌のように変じる。ヴェンダーヤの僧兵に伝わる修法をタルスは身に付けていた。満身の力で叩きつけられた櫓が、折れて砕けた。
攻撃を加えていた船頭は、赤黒く色づいたタルスの皮膚が無傷なことに、驚愕の表情を浮かべた。
「アレは何だ? 正体を知っているな?」
ジリッとタルスは船頭に詰め寄った。
船頭は答えなかった。人の良さそうに見えた顔は、いまや鬼の形相になっている。船頭は折れた櫓を放り投げ、彎曲したナイフを出して構えた。
タルスが寄ると、船頭は後でなく横に移動して距離をとった。二つの影法師は円を描くように間合いを測った。タルスの筋肉が躍りかかる猛獣さながらに、ギリギリと引き絞られていく。
ふいに霧が流れ、船頭の邪悪な笑みが目に入った。
気づいたときにはすでに遅かった。水辺を背にしてしまったタルスに、背後から蔓が襲いかかった。
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