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 小舟に乗っているのは、全部で四人だった。  長細い舟に前から、旅装束の戦士タルス、西岸に里帰りするという若い女、行商人らしい上背のある浅黒い肌の男、それに小男の船頭だ。少なくとも、朝まだき、ザルルイの波止場で乗り込んだ面々がこの四人だったのは、間違いない。  というのも、出発から半日経ったいま小舟は、白い闇と見紛う、微細な水の粒の只中を進んでいるからだった。行く手も来し方も、視界は白く滲み、舳先のタルスからですら、艫の船頭はぼんやりとした影法師めくのだった。  南方大陸の東部を侵食するム・オン湿原は、又の名を〈声なき者の(うみ)〉と云う。一年のほとんどを雲母色の濃霧に覆われ、晴れの日は数えるくらいしかない。この湿原を歩いて渡ることは出来ない。所々に〈眼〉と呼ばれる穴があるのだ。一見、植物に覆われて草原のようだが、踏むと地面がなく深い。そしてひと度水に落ちれば地下茎や水草が絡まって陸に揚がるのは不可能だ。  唯一の手段は、無数にあるウネウネと蛇行した川を小型の木舟で往くことで、それには網目のように入り組んだ川筋を熟知した、土着のゾイル族に案内してもらうしかないのだった。船頭の小男はゾイル族である。  向かいに座っている女が、腰につけた革袋から、乾燥させた無花果を取り出してモグモグとやりだした。正午近い時刻だが、辺りはいつまでも朝のような夕のような薄明の中にある。南国だのに気温も上がらず、タルスは一度ならず革のマントをかき合わせた。 「おひとつ、いかがです」  タルスの視線に気づいて、愛想良くすすめてくる。まだ二十くらいであろう女は、典型的なヒルニア人農婦の格好をしているが、肌の色がくすんだ乳色なので、片親のどちらかがゾイル族の出であろうと思われた。 「ありがとう、でも今はいい」  タルスは断わったが、女の後ろから声が上がった。 「俺はもらうぜ」  行商人が、女の手から無花果をヒョイと取り上げて口に放り込んだ。 「腹へったぜ、まだ着かないのか」  女は困ったような笑顔をタルスに向けたが、無花果がお嫌いでしたら、と今度は黒ずんだ干し肉の破片を取り出した。世話を焼きたがるのは、タルスの見た目が珍しいからだろうか。タルスは、ゾブオンではない。今はもうあまり見掛けなくなった古い種族ルルドとモーアキンの間の子である。筋骨逞しいが、手足は短く、ずんぐりむっくりしている。 「おい、ありゃ何だ!」  行商人が大仰な叫びを挙げた。振り向いたタルスもギョッとなった。  進行方向、霧の紗幕越しに、異様なモノがたち現れていた。  巨大な悪魔の手ーーそう見えた。黒々とした幅広の影から、幾筋もの細長い影が四方八方に伸びていた。それらは湿原の川のようにウネウネと蛇行し、捩れ、枝分かれし、合流している。  もう半日も、せいぜい丈高い葦か、ひねこびてヒョロ長い矮樹しか目にしていないため、その大きさの存在感は圧倒的だった。 「ああ、ありゃあ、御廟でさあ」  船頭は、落ち着いた様子で教えてくれた。近づくにつれそれは、中洲にある黒い石に、植物が絡みついて膨れ上がって見えているのだと知れた。船頭の云う通り、影の中心の黒石は純粋に天然自然のものではなく組石で、何者かのーーゾブオンとは限らないがーーの作為を感じさせた。そもそもこの辺りに、こんな色の石があるとは思えない。どこからか運んできたに違いなかった。 「へぇ、何の廟宇だ?」  臆病風を誤魔化すように、行商人が尋ねる。 「さあて、とてつもなく旧いとは聞いてますがねぇ……」 「きゃあ!」  最後の方は女の悲鳴にかき消された。理由はすぐに分かった。小舟の底にみるみる、川の水が入り込んできていた。タルスの旅用の長靴を濡らす水が、緑がかっていた。 「おいおい! どうなってんだ、こりゃあ!」  行商人が水を避けて立ち上がり、毒づいた。
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