『昨日の歌姫』

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『昨日の歌姫』

 『路上の歌姫』こと、寺井(てらい)梅歌(うめか)は彗星のごとく現れた歌手の名前。  大学への進学を検討するように言い聞かせる教師と就職を勧める両親の声を突っぱねて寺井梅歌は夢を追った。 「わたしは歌いたい。それを諦めるわたしを、わたしと認めたくない」  高校卒業後、寺井梅歌は家を出て狭いワンルームを借りた。家を出た理由は自立することで誰にも後ろ指を刺されたくなかったからだ。  朝から夕方までアルバイトでお金を稼ぎ、夜は駅前の路上で喉を震わせる。  歌がうまい人なんて世の中にごろごろと転がっている。だから、たいていの人々は歌手になることは不可能だって決めつけている。 「…聞いてください! わたしの夢を」  だからこそ、寺井梅歌は歌うのだ。幼いころに聴いた咲かなかった路上の歌を知っているからこそ、咲けるということを証明したかったのだろう。  そして、寺井梅歌は成功した。(たゆ)むことのない努力が実を結び、路上に立ってたったの一年ばかりで音楽関係者に声を掛けられた。 「最初はこんな風に人前に立てるだなんて思いもしませんでした! 笑えない日も無理やり笑ってた気がします、えへへ。けど、今は心から笑えてるかなって思います!」  初めてのライブで寺井梅歌は満面の笑みで歌を歌った。  しかし、このライブが寺井梅歌の人生最後のライブとなった。  ___え?  初ライブの終わり、その余韻(よいん)に浸りながら夜道を歩いていると声を掛けられた。ファンの子にでも付けられてしまっていたのだろうか、と思い笑顔で後ろを振り向く。  世界は残酷だった。善意だけで世界が構成されているわけではなくて、善意の分だけ悪意もあった。 「え、ああ、ぐああああああ、痛ッ…! ___ッ」  男の姿を目が捉えると同時に視界が微睡(まどろみ)を帯びた。  視界がぼやける前に捉えたのは目の前の男が手にしていたコップを投げた瞬間。焼けるような熱がすぐさま顔を覆い、目も開けられなくなった。  熱を拭おうと手で擦ると熱はさらに顔中に広がって思わず悲鳴を上げる。その際、液体が口から入って喉が焼ける感触を味わった。体の内外で持続する熱と痛みに耐えかねて寺井梅歌は意識を失った。  病院で目を覚ました寺井梅歌は視界が狭いことに気が付いた。見慣れぬ天井と知らない匂いに不安になる。体を起こそうとして手を動かすと、痛みに顔が歪んだ。  表情筋を少し動かした程度で激痛が走る。試行錯誤の末に体を起こすとどこにいるのかすぐに分かった。病院だ。しかし、なぜ病院にいるのか分からなかった。 「起きましたか、寺井梅歌さん」  聴診器を首元に垂らす医者が部屋に訪れる。「残念なことですが」と医者は前置きをした上で、包帯を巻いている理由を語った。  ___アシッドアタック。  それから鏡で自分の顔を見た寺井梅歌は声一つ出さなかった。手で優しく喉を触れることしかしなかった。
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