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1 酒場の看板娘
マルクレン王国は豊かなところだった。
生活にかかせない鉱石が豊富にとれること、それを上手く利用する設備に力を注いでいることから、近隣諸国と比べて国民の生活が安定している。
鉱石には種類があり、電磁力や熱伝導に強いもの、発光に長けているものなどある。
マルクレン城に程近い歓楽街の酒場『ビアーノ』の二階に住み込みで働くリリアナは、細い身体にエプロンをつけ、茶色くうねった髪の毛をおさげに編む。
そのエプロンは、火で炙った平らな温石で皺なくピンと張った状態。
階下におりる時に足元を照らすのは、壁にぶら下がっている発光石。
調理場で野菜を洗う時にポンプをひと押しすれば、屋外の貯水槽から水が送り込まれ、豊富な水圧なのも電磁石の回転運動を生かした仕組み。
貴族の家でなくてもこれほど便利な世界であった。誰もそれに違和感も覚えず、有難く恩恵を預かっている。ただひとりを除いて。
「はーぁ、電子レンジ欲しい」
リリアナは洗った野菜をカットし終えて、大鍋で茹でる準備の最中にぼやいた。
「なんだい? デンシレンジって」
酒場の女将カーラが豊かな身体をせわしなく動かしながらも、リリアナの不思議な言葉を拾って声だけかける。
「箱みたいなのにね、野菜にラップしたの入れてボタン押したら、チンッて一瞬で茹で上がるんだよ」
「また、面白い夢見たんだねえ。疲れてるなら、たまにゃ休んでいいんだよ? それで、そのラップってなんだい?」
いつものビアーノの日常だ。リリアナの不思議な夢を、女将や店主が温かく聞き流す。孤児院から譲り受け、真面目で元気に育ってきたリリアナを寛容に大雑把に育ててきた夫婦にとっては、もはや日常会話のひとつである。
「ラップは、前にも言ったんだけどな。こーんなうっすい透明なピラピラのシートだよ」
「そうだったかね?」
「リリアナ、こっちはいいから表のほう頼む」
「はーい」
こちらもまた恰幅のよい店主ボスコに言われ、リリアナはホールに出る。
夕方から店は開かれるので、それまでに料理の下ごしらえや、掃除などを済ませておくのもリリアナの日課。他の店員がやってくるまでに粗方終わらせておくのは、リリアナの真面目な性格ゆえ。
だけど、毎回思うのだ。
「掃除機があればなー。たぶん、電磁石の要領で近い未来、作れるんじゃないのかなー」
箒で掃きながらぼやく。
リリアナは、この世界とは違う景色を、見たことがあるのだ。
彼女の産まれは、このマルクレン国。18年前にこの世に生を受けたが、母親の身体が弱かったことと、家計が苦しくなったことが重なり孤児院へ預けられた。6歳で今のビアーノに引き取られたのだが、そこで初めて世間に出たことで違和感を感じた。『なんか違う』ということに。
もっと近代的な社会で、もっと自分は年齢が上で、気ままな生活をしていた、ような気がした。
ここでは馬車がメインの移動手段だけど、馬を使わない鉄の塊や、二輪の物体に股がって走るものも知っていて、それが『自動車』『バイク』と名前まであることも知っている。
年齢が上がるにつれ、だんだんと夢だったのだろうかと思うようになってきたが、どうしても忘れられない、何度も思い出す映像がある。
その車やバイクが行き交う道路に、突然現れた銀髪の少年。彼を助けようとして無鉄砲に飛び出した自分。
いつもそこでハッと目が覚める。忘れてはいけない気がする。その違和感を抱えながら、気付けばもう18歳となっていた。
年頃の乙女である。結婚適齢期でもある。
店主達は、そろそろ良い相手はいないのか、むしろ誰か貰ってやってくれ、気立てはいい子なんだ、たまに変な独り言は溢すけど、と近所やお客に面白おかしく言ってみせる。が、わりと本気であるのはリリアナしか気付いていない。
酒場で、多種多様な男たちが毎日やってくる、出会いの場所としては恐ろしいほどのチャンスに恵まれているというのに、今まで一度も浮いた話にならなかった。
愛嬌のある顔なのだが、無造作に結われたおさげと細い身体が、真面目にクルクルと飛び回って配膳しているので、皆和やかにそれを我が子、もしくは孫を見るような感じで見守る心理になるらしい。
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