遥かとおい、夢のさき

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 生徒会室のドアのすぐそばから、小さな嗚咽と、駆けていく上履きの音。  それが何か、直感的に分かった。同時に、後悔と、喜びと、憤怒と、情けなさと、矛盾するいくつもの感情が奔流となって流れるのを知った。 「――ッ!!」  その時の私は、余程気が動転していたのだろう。  花島を、銃のごとく射抜く。  装いを捨てた感情を、花島に鋭く刺した。 「おっと……これは悪いことをしたね」  遠のく花島の声の一切は、私の耳に届かない。私の意識は、全て、扉を開けた向こう、廊下の先で走る彼女の後ろ姿だけに注がれる。  その時の彼女の姿を、私は忘れることができない。烙印(らくいん)となって、きっと、私の心にずっと残る、そのいくつか目の記憶。  その背中は、少しだけ萎縮して見えた。 「っ……!まっ、たき……!」  霞むような声は意味をなさず、伸ばしかけた手は届かない。そのうちに、彼女は曲がり角を曲がってしまう。  急がなければと、思った。  間に合わないかもしれないと、思った。  何に――?  分からないけれど、なんとしても早く彼女と話さなければならないと、私の心のは叫んでいた。  二重の意味で間に合わなくなる前に、私は走らなければならない。ならば決してしないような行為。  会って、会ったとして、彼女になんと声を掛けようかというしっかりとした考えがまとまるよりもずっと早く私の脚は走り出していた。  ただ、きっといつか彼女に言ったあの言葉を――。 『もし、あなたにその気があるなら、生徒会室に来なさい。私に出来ることなら何でもするわ』  彼女が覚えていてくれたのだと、それだけはちゃんと分かった。冷静に考えてみれば生徒会室の前に滝夢さんがいたからと言って、彼女があの言葉を覚えていたかどうかは分からないが、この時の私は冷静ではなかった。  滑稽なことに、私は走り出してすぐに気がつく。  こんな姿、誰かに見られたら花島に揺さぶられるまでもなくはお終いだ。言訳くらいいくらでも出来るが、一度抱かれた不信感を拭うのはなかなかに厄介だ。ともすれば、これをきっかけに周囲の花島への信頼の方が強くなる。ただ廊下を走っているだけでも、にとっては許されざる行為だった。 「そんなもの……!」  けれど、今はどうでもよかった。  泣いていたのだ、滝夢さんは。きっと、生徒会室の前で私と花島の会話を耳にして、泣いていたのだ。それで、私から離れようと、走ったのだ。  そんな彼女を――いや、彼女にそんな風な行動をとらせてしまった事実を、このままにしていいわけがないと思った。  何より、心の中の異なるものが、を急かして、動かして、走らせて、探させた、彼女を。  何度目かの突き当りを曲がって、彼女の姿を探す――だが、 「い、いない………」  親に怒られる時の子供のような頼りなさと。  姉と喧嘩をした妹のような寂しさが、私の中を駆け巡る。親は滅多に私に関わらない。私には兄弟姉妹はいない。ただ、事務的な会話で私に跡を継がせるか、そうでなければどこかのお偉方の長男か何かと結婚させ、それを養子に出して後継者にしたてるとかそんな程度の道具としてしか見ていない。  親に怒られて、姉と喧嘩をして頼りなく、寂しくなりたかった私は、仮面を剥いだの私だ。  その時、脳裏にあの日の夕焼けがよぎった。  の私が、いつまで経っても忘れられなかったたった一瞬の気色と、ほんの刹那に隠れた表情が、私を彼女の下へ誘ったのだ。 「あ………」  日、次の日、明日、と過ぎ行く日々の中の、僅かに残っていた記憶の欠片を思い出した。 ――いるかもしれない、彼女が!  確証はなかったけれど、私は一心不乱に思い出した場所へ向かって足取りを変えた。  町を染める茜色の太陽みたいに眩しい自由とともにある滝夢奏が、そこにいてほしいと、恋い焦がれながら。
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